知可子は高校卒業後、埼玉県交通安全協会に就職した。浦和警察署内で、運転免許の更新手続きをおこなう業務を担当していた。
「このままの生活でいいのだろうか?」
そんな思いを抱えながら、同僚の女性たちが集う新年会に参加した。知可子にカラオケの順番が回り、十八番である杏里の『悲しみがとまらない』を歌った。透明感のある伸びやかな歌声は、居合わせた客の心をつかみ、大きな拍手と歓声が上がった。やがて若い男性が知可子に近寄ってきた。
「すみません。来週の成人式で、この曲(『悲しみがとまらない』)を歌ってくれませんか? 僕らのブラスバンドの演奏で」
知可子は快諾し、成人式の舞台で歌を披露した。すると今度は、ジャズミュージシャンから「ウチのバンドでボーカルをやってくれないか」と誘われ、ライブ活動を開始する。知可子は歌手になりたかったわけではなかったが、自然と歌の世界に導かれていった。
22歳。知可子はOLとして働きながら、毎週火曜日、ライブハウス「PotatoHouse」(さいたま市南浦和)で歌っていた。知可子がボーカルを務めるジャズバンドは、杏里の『オリビアを聴きながら』や荒井由実の『卒業写真』などのヒットソングをレパートリーにしていたため、人気があった。
ある日、常連客の女性から問われた。
「あなた、将来の目標はあるの?」
「天職を見つけて転職しようと思っています」
「じゃあ、あなたにとっての天職は何? 思い切って歌で人生、勝負してみなさいよ」
その言葉は、知可子の胸に深く突き刺さった。知可子にはあこがれていた3歳年上の男性がいた。バスケットボール部の先輩で、高校卒業後、実業団でプレーしていた。
「その先輩は練習が終わったあと、私がライブで歌う『オリビアを聴きながら』を聴きたいからと、毎週、ライブハウスに来てくれていました。ライブが終わったあとは、私が彼を自宅まで車で送っていました」
その日も知可子は先輩を横に乗せ、車を走らせながらあの言葉のことを伝えた。
「常連のお客さんから、『歌で勝負しろ』って言われたんです」
「おい、俺がお前のファン第1号だぞ! でも、そう言ってもらえるのは素敵なことだと思う。夢を追いかけるのは尊いことだから、一生懸命がんばれよ!」
知可子は幸福感に満ちていた。尊敬する先輩に背中を押してもらえたことが、何よりうれしかった。
1週間後、その先輩は交通事故で亡くなった。絶望が知可子を支配した。理不尽な運命を呪った。
「いつか絶対、この人のぶんまで私は輝いてやる。夢をかなえて、歌手にならなきゃいけない」