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中西保志『最後の雨』カラオケ用の映像撮影で放水車から浴びた雨雨雨…ずぶ濡れで大ヒットした名曲がいまもカバーされる理由とは
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2024.04.28 06:00 最終更新日:2024.04.28 06:00
2024年1月から放送され、鈴木おさむ氏の脚本家として最後の作品となったたドラマ『離婚しない男―サレ夫と悪嫁の騙し愛―』(テレビ朝日系)。挿入歌として、GENERATIONSの数原龍友が『最後の雨』をカバーし、話題になった。
「聴いた方は、それが原曲だと思ってしまうのでしょうから、僕にまで波及してはこないというか(笑)。でも『最後の雨』を共有財産だと考えるならば、みんなで歌って広げていくのは、その曲がスタンダードになることだから、いいことだと思います」
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1992年に原曲を歌った中西保志(62)は、当時を知らない世代をも曲が惹きつけていることについて、こう言って笑った。
これまでも倖田來未、JUJU、クレイジーケンバンドなど多くのアーティストにカバーされてきたバラードの名曲『最後の雨』は、中西のセカンドシングルだ。
「僕はずっと、ジャンルを問わず『声』に興味があったんです。日本なら、親父が好きだった三波春夫さん、村田英雄さんの声には、子供のころから親しんでいましたし、ブラック・コンテンポラリーといわれる歌手には声がすばらしい人が多くて、レンタルレコード店で、いろいろ借りては聴きまくっていました。
大学生活もあとわずかになると、バンドを組んでいたまわりの友人たちは、スーツを着て就職活動をしているんだけど、僕はどうも宙ぶらりんでね。レコードを聴きながら、僕もこんなことならできるんじゃないかと思ったりして」
ちょうどそのころ、大学時代の先輩が大阪のテレビ局で、素人が出演するものまね番組を制作していた。その先輩が、中西が大学時代に宴会で歌手のものまねをしていたのを思い出し、「番組に出演しないか」と連絡をしてきたのだ。
「まあ、やってみるかと大阪・福島にあるシンフォニーホールに行くと、サングラスとドレッドヘアと衣装が用意されまして。ただ歌ってもおもしろくないだろうというわけです(笑)。それでスティーヴィー・ワンダーのものまねをしたんです」
この番組を東京の制作会社の人間が見ており、「東京でもやってくれないか」と声がかかる。
「ちょうど勤めていた会社をやめて、アルバイトで塾で採点したり、家に子供を集めて塾のまねごとみたいなことをやったりして、食いつないでいたころでした。
東京のキー局の素人参加のものまね番組に2回ほど出演したら、まあこれが、僕の知らないところで使い回されて、何十回も出ている人のようになっていたみたいで(笑)。その番組を見た事務所兼レーベルに所属させていただくことになりました」
喫茶店で面会したが、中西はプロの歌手に、そんな簡単になれるものではないと思っていたため、話半分で聞いていた。
「その人が最後に『君の名前でレコードが作れるかもしれないよ』と言ったわけです。これはちょっとグッときまして。だいぶ後になって聞いた話ですが、最初のCDが出たとき、僕は『明日、交通事故で死んでも、これは残るんだよ』と言ったらしいんです。だから、よっぽど『君の名前でCDが作れる』というひと言に、惹かれる思いがあったんでしょうね」
関西の住居を引き払い、生活の術も決めないまま上京したが、「まわりには、僕みたいなのが全国から集まっていて、生け簀(いけす)のように飼われていました」。デビューのめどもなく、3年が過ぎた。
そして1992年4月、30歳にして『愛しかないよ』でデビュー。4カ月後、31歳で『最後の雨』をリリースした。
「正直なことを言うと、カップリングの『君が微笑むなら』という曲は僕の作詞で、日本テレビさんのバルセロナ五輪のテーマ曲に決まっていたこともあり、思い入れはそっちのほうが強かったんです。
内心、大ヒットを期待をしていたんですが、オリンピックが終わるとあっという間にしぼんでしまいました(笑)。アルバムもほぼ同時に出しましたけれど、どちらもまったくの無風状態でした」
その後、全国に1000カ所ほどあった有線放送所を、ひたすらキャンペーンでまわった。
「当時、メジャーだったのが大阪有線放送で、札幌、仙台、東京、名古屋、福岡などの重点地域や県庁所在地などはすべてまわりました。しかし、主要都市はいろんなアーティストが訪問するから、ポスターにサインしてきても瞬時に忘れ去られる(笑)。
一方で、地方の放送所だと、娯楽がないから数年後にまわってもポスターが残っているし、リクエストを入れてくれるんです。郊外の放送所が重要なので、きのこ狩りのように、山奥の放送所をめぐりました(笑)。営業案件ではなく、“人情案件” でしたね」
そして、有線と並んで絶大な影響力を持っていたのがカラオケだった。まだ通信カラオケになる前で、レーザーディスクに入っている曲が映像とともに流れた。1枚のレーザーディスクには20~30曲が入るが、そのメーカーの “推し曲” になるための争奪戦はすさまじかったという。
「僕らは力のない超弱小でしたので、どうしたら入れてもらえるのかと悪戦苦闘しました。渋るメーカーを説得して資金を用意して、プロモーションを兼ねてレーザーディスクカラオケ用の映像を撮ろうということになったんです」
ある有名な映画監督がディレクターとして立ってくれることになったが、まったく手を抜かない人だった。極寒の1月7日の早朝、新宿中央公園に集合してしばらくすると、放水車が到着した。
「『雨に打たれているところを撮りたい』という監督の意向で、2メートルぐらいの高さの台に乗って、指示されたとおり両手を広げていると、雨合羽を着た消防士さんのような人に、すごい勢いでブワーッと水をかけられました(笑)。
その瞬間、体がブルっと震えるんですが、一生懸命耐えました。何回も何回もかけられて、自前のジャケットもびしょびしょでした(笑)。『ご苦労さん、一回お風呂入って』と言われて、やれやれと思って風呂に入って着替えたら『本番行きます』って(笑)」
この後、絵画館前など、都内を3カ所ほど移動し、そのたびに同じように放水車で水をかけられた。さらにその後、神奈川県鎌倉市の七里ヶ浜へ移動。ここでは放水車の水ではなく、天然の雨の土砂降りにあう。最後は調布市へ移動、イルミネーションの前で歌った。
「ぜんぶ撮り終えたのが、深夜の12時前。朝6時からずっとびしょ濡れですよ(笑)。そのときに、僕は映画俳優ならまだしも、歌を歌うために東京に来たんだと。こんなびしょ濡れになるために出てきたんじゃないと思ったんです。このまま売れないままでは帰れないと思いました」
中西の思いが通じたかのように、『最後の雨』は発売から半年ほどを経て、有線チャートをジリジリと上昇。多くの人から愛されるバラードの名曲となった。
なぜ、30年という月日を経ても『最後の雨』は多くのアーティストにカバーされ、男女問わずに歌われ、心を打つのか。
「それは僕自身の感覚としては、わりと冷静な分析ができています。まずメロディーラインはAOR(アダルトオリエンテッドロック)と言われた、ボズ・スキャッグスなどの西海岸の音楽です。ボーイズIIメンも『最後の雨』をカバーしてくれたほどですから、洋楽好きの人にはフィットしたと思うんです」
だが当時、AOR調の曲はあふれかえっていた。それらと『最後の雨』の違いは何だろうか。
「それは、間違いなく歌詞です。ほんのちょっぴり、演歌が入っているんです。たとえば石川さゆりさんの『天城越え』の向こうを張ったかのような、“自分のものにならないなら、壊してしまいたい” というくだりがあります。
この絶妙さによって、幅広く受け入れられたんだと思います。制作陣がどこまで自覚的だったのかはわかりませんが、その思いも含めて、大切に歌わなくちゃいけないと思っています」
近年、中西はオリジナルのステージを企画・制作している。これまで関わってきたアーティストを迎えての、歌をメインにした公演だ。
「数年前は中西圭三くんをゲストに呼んで、ライブの最初から圭三を出すっていうオチをやったりしました(笑)。酒を控えて健康維持に務めないと、あの声を出すのはなかなか大変で、歌うとガクッと疲れるんです。僕が『最後の雨』を歌えている間は、健康だということ。古希までは今のスタイルでいきたいですね」
なかにしやすし
1961年生まれ 奈良県出身 2000年代はアルバム『Standards』シリーズなど、名曲のカバーでも人気に。7月7日、ラドンナ原宿にて『中西保志 大・生誕祭4~保志(☆)の宴~』を開催する