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B’z誕生の裏に“先生”小室哲哉の教え“3人めのメンバー”らが語る国民的バンドの軌跡

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記事投稿日:2025.01.26 06:00 最終更新日:2025.01.26 06:00
出典元: 週刊FLASH 2025年2月4日号
著者: 『FLASH』編集部
B’z誕生の裏に“先生”小室哲哉の教え“3人めのメンバー”らが語る国民的バンドの軌跡

2012年、米ニューヨークでのB’zのライブ(写真・ゲッティ/共同通信)

 

 録画映像かと思いきや、メロイックサインを掲げた松本が突如、登場。マイクトラブルをものともしない稲葉の熱唱に、日本中が熱狂した。日本一ロックな2人のスゴさを、関係者らが初めて語った!

 

 2024年12月31日放送の『第75回NHK紅白歌合戦』で、B’zは『イルミネーション』(2024年)など3曲を披露し、大きな話題を呼んだ。

 

 50作連続シングル1位、アルバム総売上枚数1位など、長年にわたって日本の音楽界を牽引するボーカル・稲葉浩志とギター・松本孝弘は、いかにして日本一のロックグループを作り上げたのか。

 

 

■アレンジャー・明石昌夫氏の証言
「『究極のユーロビートハードロックを作ってやろう』と、松本さんのスイッチが入った」

 

「僕が2人と出会ったのは1988年ごろ。まだ彼らがデビューする前のことでした」

 

 そう語るのは、アレンジャーの明石昌夫氏(67)。15枚めのシングル『MOTEL』(1994年)までB’zの編曲を手がけ、ツアーのサポートメンバーとしてベースを担当して “3人めのメンバー” と呼ばれていた人物だ。

 

「当時、松本さんは、ハードロック系の売れっ子スタジオミュージシャンで、稲葉さんは、所属事務所・ビーイング(現・B ZONE)のボーカルスクールの優等生。稲葉さんと一度セッションしてみると、すごい声の持ち主だと思いましたが、最初は歌詞が書けなくて苦労していましたね。彼はアマチュア時代に洋楽ばかり聴いていて、日本の音楽はBOWWOW(現名称)やLOUDNESSといった英語詞の多いジャパニーズメタルしか聴いてこなかったので、しょうがないんですけどね(笑)」

 

 B’zは1988年5月に結成。同年9月、アルバム『B’z』と、明石氏が編曲したシングル『だからその手を離して』を同時発売した。だが、2枚めのアルバム『OFF THE LOCK』(1989年)までは、ヒットに恵まれなかった。

 

「松本さんは、最初から売れることを意識していました。でも、当初は思うように売れなかった。そんなあるとき、レコード会社の担当者から、『セールスは度外視して、やりたいことをやってみてください』と言われたんです」

 

 初期のB’zが目指した音楽は、明石氏いわく「ユーロビートとハードロックの融合」。ユーロビートとは、シンセサイザーの打ち込みを多用したダンスミュージックで、1980年代、世界を席巻していた。

 

「担当者からはっきりとそう言われて、『よし! 究極のユーロビートハードロックを作ってやろう』と、松本さんのスイッチが入ったんです。そしてリリースしたのが、3曲入りミニアルバムの『BAD COMMUNICATION』(1989年)でした。このヒットがなければ、いまのB’zはなかったかもしれません」

 

 同作は1989年から1993年まで100位以内にランクインし、100万枚を超える大ヒットとなった。そして、翌年のシングル『太陽のKomachi Angel』(1990年)で初の1位を獲得した。

 

 そんな松本が「先生」と呼んで師事していたのが、ユーロビートを日本に輸入した小室哲哉(66)だった。小室が率いるTM NETWORKに、松本は1985年のライブからサポートギタリストとして参加してきた。

 

「お酒を飲んでいるとき、彼は『B’zが売れたのは、先生の理論が正しかったことを証明したにすぎない』と語っていたことがありました。曲づくりについても、小室さんに、『メジャーの曲は暗く、マイナーの曲は明るく。メロディはわらべ歌のようにわかりやすく』と教わったそうです。B’zの楽曲をゆっくりと、小さな声で歌ってみてください。たしかに、わらべ歌みたいになるんです」

 

■コーラス担当・高樹リオの証言
「超ストイックな1週間のリハーサル」

 

「B’zのオーディションとは知らず、六本木のスタジオで2曲歌いました。カラオケに合わせてコーラスパートを歌ったら、後光が差すような超イケメンに『低音がいいね』と褒められたんです」

 

 1992年のライブツアーでコーラスを担当し、現在はロックバンド、ロッカ★フランケンシュタインのボーカルを務める高樹リオ氏が言う。そのイケメンが稲葉だったことは、後になって知った。

 

「私、日本の音楽にうとかったんです(苦笑)。オーディションに合格した後、ツアーに参加するミュージシャン全員が山梨で合宿しました。1週間みっちりリハーサルをし、練習が終わると連日、朝まで飲み会でした。松本さんはお酒が強くて、朝5時ごろまで飲むのはふつうでしたね。稲葉さんは喉を守るために、飲み会にはほとんど参加していません。翌朝、松本さんは目が覚めるとギターの練習を始めて、稲葉さんはランニングに出かける。みんな、驚くほどストイックでした」

 

 B’zにとって初のアリーナツアー。360度観客を入れた大規模なステージだった。

 

「当時、ガンズ・アンド・ローゼズが流行っていたので、その影響もあったんですね。稲葉さんはボーカルのアクセル・ローズみたいに短パンをはいていて、やんちゃな感じでしたね。コーラスは女性2人で、ボディコンの衣装を着て、自分たちで振付を考えて踊っていました。ライブでは、バックミュージシャンもメンバーの一員のように大切にしてくれました。チーム感が、とても心地よかったです」

 

■音楽評論家・近田春夫の証言
「ハーモニカひとつでアリーナを支配」

 

「友達の女性に『とにかく聴いてごらんよ』と言われて、アルバム『IN THE LIFE』(1991年)を聴いて、衝撃を受けました。『紅白』で初めてB’zを聴いた若い世代も、驚いたんじゃないかな」

 

 と語るのは、ミュージシャンで音楽評論家の近田春夫氏(73)だ。

 

「松本さんのギターの音もすばらしかったんですが、稲葉さんの歌詞が印象に残りました。客観性があって頭のいい人なんだろうなって。彼の歌詞は日常生活を描いていて、ひとつひとつの景色が浮かんできます。ふつう、そうするとMr.Childrenのように、ウエットな抒情性の方向に流れがちなんだけど、B’zはあくまでドライなんですよね。洋楽の影響は見て取れるけれど、歌唱が英語っぽくないから、歌詞カードを見なくてもわかる。すごいオリジナリティだと思います」

 

 それからは、B’zが新譜を出すたびに聴いてきた。

 

「たしか横浜アリーナだったと思いますが、ライブにも行きました。そのとき、バンド演奏に入る前、稲葉さんがずっとハーモニカをソロでやったんです。それがまた、音楽性もすごくて。あんな広い会場を、ハーモニカひとつで支配するんだから、この人は本物だな、と確信しました」

 

 それでも、「B’zは松本さんのバンドだと思う」と近田氏。

 

「ふつうはボーカルがメインになりがちだけど、2人は微妙に上下関係があるなかで楽しんでいて、それがすごくカッコいいと思います。稲葉さんが松本さんに気を遣っているというわけではなく、あのギターが後ろにいてくれることへの、全幅の信頼ですね。松本さんのギターを生かすために歌があることは、誰より稲葉浩志がわかっていますよ」

 

■カメラマン・緒方秀美氏の証言
「あなたが十分、トゲだから(笑)」

 

 シングル『FIREBALL』(1997年)やアルバム『GREEN』(2002年)のジャケット写真などを撮影したのが、カメラマンの緒方秀美氏だ。

 

「最初は1997年ごろ、稲葉さんのソロのレコーディング風景の撮影でした。あるとき、スタジオの都合で撮影がキャンセルになってしまいました。その次にお会いしたとき、稲葉さんがスタジオに入ってくるなり開口一番、『先日は、撮影できず申し訳ありませんでした』と私に言ってくださったんです。とにかく謙虚な方。気にかけていただいたのがうれしくて、撮影もがんばりました(笑)」

 

『HOME』(1998年)などのPV撮影では、香港へ。

 

「私は、撮影を始めると夢中になって、つい無理難題をお願いしてしまうことがあるんです。ビルにぶつかるように低空を飛ぶ飛行機を背景にお2人を撮りたいと、ずいぶんお待たせしてしまったこともありました。でも、お2人ともイヤな顔もせずに協力してくださいました。撮影最終日には、レストランに連れて行ってくださって『今日はあなたが主役』と、私の両隣に座られたんです。私が店からバラの花を贈られて、トゲがきれいに取り除かれていることに驚いていると、『あなたが十分、トゲだから』と言われてしまいましたが(笑)」

 

 ふだんは紳士的な松本だが、緒方氏はそんなフランクな一面を目にしてきた。

 

「米デスバレーでの撮影の後、チャイニーズレストランに行ったんです。そのとき、稲葉さんが鶏肉とカシューナッツの炒めものを食べる様子を見て、松本さんが『稲葉、カシューナッツばかり食べて……』って(笑)。まるでお兄さんみたいでしたね。稲葉さんはいつでも『松本さん』と呼んでいました」

 

 前出の明石氏によれば、松本は、プロモーション戦略やライブの舞台演出なども小室から学んだという。そのほか、稲葉をプロデュースする能力も “師匠譲り” だ。

 

「僕がいた終わりのころ(1995年ごろ)かな、松本さんが『稲葉は、年を取ったら渋い俳優みたいになってなきゃいけないんだよ』と言ったんです。稲葉さんは怪訝そうにしていましたが、松本さんはB’zをトータルで考える人なんだなと思いましたね」(明石氏)

 

 還暦を迎えた稲葉が、『紅白』で見せた圧巻のステージ。松本の目は、こんな日が訪れることを、見すえていたのだろうか。

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