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【創刊50年】加藤夏希、神戸蘭子ら「JJ」を飾った人気モデルの“いま”畑野ひろ子はシューズショップ社外取締役に

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記事投稿日:2025.09.14 06:00 最終更新日:2025.09.14 07:32
出典元: 週刊FLASH 2025年9月23日・30日合併号
著者: 『FLASH』編集部
【創刊50年】加藤夏希、神戸蘭子ら「JJ」を飾った人気モデルの“いま”畑野ひろ子はシューズショップ社外取締役に

左から畑野ひろ子、加藤夏希、神戸蘭子

 

 着たい服や、ほしいものが満載だった。20代女性の“リアル”を紹介し、女子大生ブームを牽引した「JJ」。創刊から半世紀を迎え、誌面を彩った“JJガール”が舞台裏を語る。

 

「『JJ』をやらせていただいたからこそ、キャンペーンガールやテレビのお仕事が増えていきました。いろいろな意味で、育てていただいたと思っています」

 

 こう話すのは、17歳で「JJ」でモデルデビューした畑野ひろ子だ。畑野が生まれた1975年に創刊されたこの女性ファッション誌は、2025年で誕生から50年になる。

 

 

 街でスカウトされた彼女は、所属事務所にやりたい仕事を問われ、「『JJ』のモデルをやってみたいです」と答えた。愛読誌だったからだ。

 

「その後、編集部に行く機会ができ、当時の編集長と担当編集の方と面談しました。読者層からすれば、私は年齢が若すぎたんですが、『先輩OLと後輩OLの企画があって、初々しいモデルさんを使いたかったから、やってみようか』という話になったんです」

 

 いまでも、1992年の撮影初日のことは、スタッフの名前も含めて鮮明に覚えているという。

 

「まったく未経験のままメイクをしていただいて、ロケに出発しました。こんなに緊張することがあるんだというくらい、笑顔も引きつってしまいました(笑)。先輩モデルさんたちのキラキラ度合いがすごくて、そのオーラに圧倒されました」

 

 あこがれていた世界に一歩、足を踏み入れると、みんなで雑誌を作っていくという楽しさに惹かれ、すぐにモデルとしてやっていこうと決意した。

 

「1カ月に何冊買っただろう、というぐらい、たくさんの雑誌を読んで、撮影では先輩モデルさんたちの動きをひたすら追っていました。当時はいまのようにデジタルカメラではないので、ポラロイドが上がるまでは、求められたポーズができているか、不安でしたね」

 

 国内外問わず、ロケに飛び回った。

 

「私は “海外担当” といわれるくらいで、多いときは月に3回ほど、海外に行くこともありました。どれもたいへんでしたが、なかでもつらかったのがイタリア・ドロミテのスキー場での撮影。五輪選手の名前を冠した急なコースで、ほぼスキー未経験の私は、ソリで滑り降りる羽目になり……本当に怖かったです(笑)」

 

 畑野が誌面で活躍した1990~2000年代は、雑誌のロゴの色から“赤文字系”と呼ばれた、コンサバ系ファッション誌の全盛期。「『JJ』は、その元祖でした」と語るのは、放送作家でコラムニストの山田美保子さんだ。

 

「創刊翌年の4月に、青山学院大学に入学しました。当時、出ていた『anan』や『non-no』には、自分が着たいと思っている洋服が載っていなくて、『JJ』を見たときには『やっと私たちが着たい服が載っている雑誌が出たね』と、学食でみんなで回し読みをしました」

 

 当時は「読者モデル」という言葉はなかったが、サークル活動やキャンパスで会うような学生が誌面や表紙を飾り、身近な雑誌でもあったという。

 

「『◯◯大学の□□ちゃんが出てるよ』『このコ、△△の元カノだよね』なんてゴシップ的な見方もして、隅から隅まで楽しんでいました。一方でひときわ目を引いたのは、たとえば玉井亮子(旧姓・高橋)さん、黒田知永子(旧姓・樫本)さん、花田理美子(旧姓・紅谷)さん、賀来千香子さんたち。カリスマでしたね。そして、トップオブ読者モデルだったのが高橋紀子さん。“実践(女子大学)の夏目雅子”と呼ばれていて、私は“紀子様”と呼んでいました(笑)。クイズ番組に出演したり、NHKで特集まで組まれたりしたんですよ」

 

「『JJ』に載ると商品が売れる」といわれるほど、その影響力は大きかった。

 

「よく覚えているのが、ベビー・子ども服ブランドの『ファミリア』のバッグ。『横浜元町特集』か何かで、学生さんが持っていたのが、すっごくかわいくて。すぐにお店に問い合わせたら、もう完売していました。それくらい、反響とパワーがあったんです」

 

 じつは、山田さんは「JJ」とは深い縁があるそうだ。

 

「私も誌面に出たことがあるんです。『自慢の愛車』という企画で、ゴルフ部の試合に自分で車を運転して行っていて、その車と一緒に取り上げてもらいました。さらに忘れられないのは、『JJ』のライターに応募したことです。ただ“JJ熱”が強すぎて、履歴書が論文のようになってしまい、落ちてしまいました(笑)」

 

■2月に水着姿で……「寒い、寒い!(笑)」

 

「JJ」モデルを始めた理由が意外なのが、2004年、19歳から誌面に登場した加藤夏希だ。

「小さいころからお芝居の仕事をしていたので、高校生まで撮影現場には制服で通っていました。自分で洋服を考えるのが小学生で止まっていたので、私の私服がダサいって(笑)。『何を着たらいいのかわからないんです』という話をしたら、『モデルの仕事で学んでみたら』ということになり、面接を受けたんです」

 

 芝居の現場には台詞を覚え、役作りをして自信を持って臨めたが、初めてのモデルとしての現場は不安ばかりだったという。

 

「みなさんが丁寧に、アイテムの名前からファッションの歴史まで教えてくださって、私は必死にメモを取って覚えました。それまでの現場は男性スタッフや男性ファンが多く、『うぉー!』という低めの声援が中心。でも『JJ』の現場は『キャー!』という黄色い声が飛びかい、癒やされました(笑)。まったく違う世界を行き来しているようで、そのギャップが仕事にプラスになったと思います」

 

 そんな加藤に、忘れられない撮影を聞いた。

 

「極寒の2月、海岸で撮影をしたときに『氷を口に含むと、吐く息が白くなくなるんですよ』と、ドラマの撮影で学んだ小ネタをポロッと口にしたんです。すぐにスタッフさんがコンビニで氷を調達し、私はそれを口に入れて、水着姿で『寒い、寒い!』って言いながら撮影しました(笑)。そんな空気がどこか青春ぽくて、楽しかったですね」

 

「ブーツ100」という、ブーツをひたすら紹介する企画も、いまでは笑える思い出だ。

 

「私と、もうひとりのモデルさんで、履いては脱いで、履いては脱いでで50足ずつ撮りました。すごくがんばったんですが、誌面を見たら当然、ブーツだらけで、『自分の足はどれ?』みたいな(笑)。ふだんは“加藤夏希という商品”を撮っていただくのに、モデルの仕事になったときは、洋服や靴がメインになる。いい経験になりましたね」

 

■ “おバカだよね?” に「悩んでいました」

 

 2003年に「JJ」デビューした神戸蘭子も、撮影で口紅やチークの新色をひたすら塗っては落とし、を繰り返したことがあるという。

 

「ほかのモデルさんと2人での撮影で、もう流れ作業でしたね。唇の皮が剥けてきたり、チークを塗った肌がヒリヒリしたりして、すっごくたいへんでした(笑)。誌面には唇と頬が載るだけなので、誰だかわからないんですよ。でも、ファッションページの裏側が覗けたみたいで楽しかったです」

 

 大学入学のために宮崎から上京した神戸は、街中で「JJ」スタッフに声をかけられ、ヘアスナップのページで初登場した。

 

「高校生のときから読んでいたので『JJ』は身近でしたが、読者モデルとかはまったく考えていなくて、この世界でずっとやっていくつもりはありませんでした」

 

 大学卒業後、アパレル会社にプレスとして就職。会社の理解もあり、モデル活動を続けた。身長154cmの神戸は、人気連載「Sサイズモデル」の誌面で、すぐに人気を得た。

 

「ただ、私がショップに立つと、見世物みたいになってしまって。会社の好意に甘えているような状態もつらくなってきて、退社することにしました」

 

 その後のブレイクはご存じのとおり。2008年に芸能事務所に所属し、翌年には『クイズ!ヘキサゴンII』(フジテレビ系)で全国区の人気者になった。

 

「『アニメ声』『舌足らず』といわれる、この話し方もあって、いきなり『おバカだよね?』と言われることが多く、悩んでいました。私は弁が立たないし、人見知りだから、うまく自分で説明ができなかったんです。そもそも、人前で話すことがとにかく苦手で、いつも心臓が破裂しそうでした。それでも、自分がやるべき仕事はきちんとやらなくてはと、一生懸命でしたね」

 

 ファッションショーに引っ張りだこだった神戸は体調を崩すことが増え、2013年、31歳で事務所を退社。同年、「JJ」専属モデルを卒業し、現在は2児の母だ。

 

「2023年にベビー服のブランド『Baskin Folks』を立ち上げ、デザインをしたりロゴを考えたり、ディレクター的な役目をしています。子どものころから裁縫が好きで、自分のやりたい仕事ができていますね。でも思い返せば、そんな自分を育ててくれたのは『JJ』。20代そのものだったあの時間があったから、いまの私があると思います」

 

■畑野ひろ子は上場企業の社外取締役に

 

 前出の2人も新しい挑戦をしている。加藤は2025年、初めて舞台をプロデュースした。

 

「夢枕獏さんが柳家喬太郎さんのために書き下ろした新作落語『鬼背参り』を舞台化しました。手作り感のある現場は、どこか『JJ』時代の撮影を思い出させてくれるようで、楽しく、やりがいがありました。女優としては母親役も経験しましたが、当時はまだ出産前で、なりきれていませんでした。4人の子どもの母となったいま、もう一度、母を演じてみたいですね」

 

 畑野は“フラワーライフスタイル”のブランドを立ち上げ、アレンジメントのレッスンなどをおこなっている。

 

「当時の『JJ』を読んでくださっていた生徒さんも多く、『あの企画、覚えています』と声をかけてもらえるのが新鮮で、楽しいですね」

 

 5月から、畑野はシューズショップを展開する「エービーシー・マート(東証プライム)」の社外取締役に就任。母親としての経験や、多くの女性誌でモデルとして培ったファッション感覚を生かすつもりだ。

 

「『JJ』から、上の年代向けの『CLASSY.』『VERY』『STORY』と担当させていただき、『“光文社っ子”だね』と言われます(笑)」

 

 原さやかは、1999年に学生ライターとして「JJ」に関わり始め、2012年からは最年少にして女性初の編集長を務めた。当時のキャッチコピーは「ガールからレディへ」。背伸びしたい20代女性に向けて、誌面作りをしていたという。

 

「赤文字系雑誌のなかでも、『JJ』はいちばん大人っぽかったと思います。女性が“素敵なお姉さん”になるために、どんなものを買ってどこに行き、何をすれば楽しく、おしゃれなのか。そのすべてが、一冊に詰まっていたと思います」

 

 さらにこう続ける。

 

「『JJ』が大切にしてきたのは、当時のファッション誌の主流だった外国人モデルへの“あこがれ”ではなく、日本の街を歩く女性たちの“リアル”なんです。そのために街中でスナップを撮り、読者調査を重ねて、誌面を作ってきました。その軸は、これからも変わらないと思います。50年は通過点。100年続くブランドになってほしいですね」

 

 山田さんも「JJ」の魅力はリアルさであり、いまでも特別な存在だという。

 

「こんなに自分が着たい服やほしいものが載っている雑誌に出会えたのは、最初で最後です。学生時代は教科書よりも『JJ』で、いまでも誌面を思い出せるほど。ライターになったのは『JJ』に落ちたせいで遅れましたが(笑)、タイトルのつけ方は『JJ』で学びました。『なんちゃってシャネル』のような言葉選びのセンスがあり、毎号、流行を生み出していたと思います。いまの私のパッションの根っこを作ってくれた存在です」

 

 50年前に始まった「JJ」は、2021年に月刊誌からウェブに舞台を移し、流行を発信している。そんな「JJ」を創ってきた人気モデルたちもまた、新たな挑戦を続け、輝きを放っている。

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