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「サマンサタバサ」と老舗鉄工所7代め社長の意外な関係/女子アナ日下千帆の「私にだけ聞かせて」

芸能・女子アナ 投稿日:2023.07.09 16:00FLASH編集部

「サマンサタバサ」と老舗鉄工所7代め社長の意外な関係/女子アナ日下千帆の「私にだけ聞かせて」

寺田さん(左)と日下アナ

 

 女子ならおそらく誰でも知っている、かわいいバッグの代名詞「サマンサタバサ」。1990年代の後半は、街に出るとバンブーハンドルのバッグを持つ女子を何人も見かけました。

 

 この流行を仕掛けたのは、広島出身の寺田和正さん。そして、会社の上場までブランドビジネスを支えたのが、お兄さまの雅一さんでした。

 

 

 寺田雅一さん(以下、寺田さん)は、現在、寺田鉄工所の7代め社長を務めていらっしゃいます。今回は、寺田さんにサマンサタバサの誕生秘話や現在取り組んでいる太陽熱を利用したエコプロジェクトについて、お話を伺いました。

 

 寺田さんは、1986年、大阪工業大学を卒業し、リード電機(現・キーエンス)に入社。しかし、お父さまの病気をきっかけに、1989年、同社を退社し、実家に戻って寺田鉄工所の経営に携わることになります。

 

 しばらくして、商社を経営していた弟さんから、新規プロジェクトを手伝ってほしいと依頼され、アフター5の仕事として引き受けました。ここから、サマンサタバサ “はじめて物語” がスタートします。

 

――私もサマンサタバサが大好きで、無名の頃から買っていましたが、ブレイクまでの時間が非常に短かった気がします。どのようなマーケティングをされたのでしょうか?

 

「1990年代のことでしたが、たまたま『JJ』の編集長と知り合ったのがきっかけです。それから女性ブランドの研究を始め、ブランディングにはストーリー性が大事だと学びました。

 

 最初は、海外で人気のブランドを日本に持ってきて流行らせようと、ニューヨークのT. Anthonyというブランドバッグを売っていたのですが、次第に自分たちのブランドを持ちたくなり、サマンサタバサのプロジェクトが始まりました。

 

 コンセプトは、1970年代のアメリカファッションでした。ストーリーとしては、おしゃれな街・神戸の女子大生の間で流行っているバッグとして売り出したかったので、最初に売り始めたのは神戸だったと記憶しています。

 

 当初は誰も知らないブランドでしたから、どうやって世に広めたらいいのか……これは大変なことだと思っていました。

 

 当時の女子大生は、『JJ』や『CanCam』『ViVi』などのファッション誌を参考に服やバッグを購入する人が多く、雑誌の巻頭ページに出た商品を見て、いっせいにお店に走るような時代でした。

 

 そのため、記事にしていただくため、毎日のように雑誌編集者の方々にお会いして、魅力を伝えました。

 

 その努力が実り、サマンサタバサは、広告やタイアップではなく、純粋に記事として多くの雑誌に掲載されたため、あっという間に20億、30億の売り上げをたたき出しました。ファッションリーダーだった梅宮アンナさんには、何度もイメージモデルとして登場いただいたことを覚えています」

 

――本当に当時のブームは、驚異的でしたね。街でサマンサタバサを見ない日はないくらいでした。

 

「2005年にサマンサタバサが上場するまで携わりました。上場後のことなので私自身は関わっていませんでしたが、最高売り上げが2016年2月の434億円に達するまで成長しました。

 

 ただ、これは当時だから成功したマーケティング手法であり、SNS時代のいまは通用しないでしょう。このプロジェクトで、人のつながりの大切さとブランドのライフサイクルについて学びましたね」

 

――現在は家業の鉄工所を継がれていますが、もともと経営にご興味があったのですか?

 

「実は、そうでもないのです(笑)。祖母が亡くなる前に『あとは頼むよ』と言われて覚悟を決めましたが、本当はアーティストになりたかったのです。

 

 母は地元でも有名な書道家で、作品を描く料紙に文様を入れるための版木つくりを手伝っていました。母に反対されたのでアーティストを本業にはできなかったのですが、鉄工所に来て間もない頃、夕方以降は時間があったので、オフィスの6階をアトリエにしてガラス彫刻の仕事を副業で始めたことがあります。

 

 個展を開くと1回で200万~300万円ほど作品が売れるようになり、真剣に取り組むようになりました。あるとき、どうやったらアート作品がヒットするのか、ヒロヤマガタをプロデュースした青山の画商ガレリアプロバに相談に行きました。

 

 すると、社長の奥様がちょうど伊豆にアトリエを開くタイミングで、装飾用のガラス彫刻の仕事をいただきました。お会いしてみたら、なんと奥様はジュディ・オングさんでした。

 

 それをきっかけに海外のリゾートホテルなどから大きなお仕事をいただくようになったのですが、NHKのニュースで “鉄工所がガラス工芸に進出” という特集が組まれると、翌年の株主総会で『本業のほうはどうなっているんだ?』と責められ、ガラス彫刻アーティストの活動は封印されてしまいました。

 

 それからしばらくして、サマンサタバサの話が持ち込まれたわけです。自分が表に出ず、弟を後ろから支えたのは、アーティスト活動の封印も影響していると思います」

 

――多方面で活躍されていたのですね。現在はどのようなことに取り組んでいらっしゃるのですか?

 

「最近は、環境問題に取り組んでいます。国は2050年にカーボンニュートラル(温室効果ガスの排出量が全体としてゼロになること)を目標にしています。今後、カーボンニュートラルを達成できない事業者や工場は、排出権(クレジット)をお金で買う必要に迫られます。

 

 いま注目しているのは農業のクレジット化です。植物は二酸化炭素を吸収するわけですから、農業で排出権を生み出せるはずです。これを販売すれば農業は儲かるビジネスになりますし、参入者が増えれば、食糧自給率を高めることにもつながるでしょう。

 

 また、夏場の太陽熱を地中に溜め込み、冬場に取り出して暖房や融雪に利用する事業にも乗り出しています。将来的にはこの季節間地中蓄熱の技術で微細藻類を育成し、バイオ燃料の製造も視野に入れています」

 

 バイオ燃料は、先日の広島サミットで政府首脳が乗った瀬戸内海の観光船にも採用されており、今後、拡大が見込める新しい技術だそうです。

 

 鉄工所の経営と環境ビジネスで常に全国を飛び回っている寺田さんの元気は、環境保護への熱い想いに支えられているようです。

 

■サスティナブル経営のための3カ条

 

(1)時代の流れに機敏に対応する
(2)目標や方針を定めたらトコトンやる
(3)科学的経営を実践し、見える化を図る

 

取材協力・コンフォートスタンド

日下千帆

1968年、東京都生まれ。1991年、テレビ朝日に入社。アナウンサーとして『ANNニュース』『OH!エルくらぶ』『邦子がタッチ』など報道からバラエティまで全ジャンルの番組を担当。1997年退社し、フリーアナウンサーのほか、企業・大学の研修講師として活躍。東京タクシーセンターで外国人旅客英語接遇研修を担当するほか、supercareer.jpで個人向け講座も

( SmartFLASH )

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