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黒柳徹子「進駐軍も米国留学も怖くなかった」父のおかげで
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2018.04.08 11:00 最終更新日:2018.04.08 11:00
黒柳徹子が、3月28日放送の『今夜くらべてみました』(日本テレビ系)に出演した。
番組では黒柳が38歳のときのニューヨーク留学時代について紹介。司会の後藤輝基が「外国の方に囲まれて物怖じすることは一切なかったんですか?」と質問すると。
黒柳は「あんまりなかったっですね。父がバイオリニストで、指揮者やなんかは全部外国人だったので」と応じる。幼い頃から外国人と接していたため、その経験が活かされたのだという。
ここで黒柳は、敗戦直後に体験したというエピソードを振り返る。
「疎開していたとき、進駐軍の電車が通ると田舎の子供たちは『食われるぞ! 食われるぞ!』って逃げたのよ。でも私は食われないと知ってましたから、『食われねえんだ、食われねえんだ』ってみんなに説明した」
戦時中、日本は敵国であるアメリカ人やイギリス人を「鬼畜米英」と教育。このため攻め込まれれば子供は「食べられてしまう」と噂された。一度も外国人を目にしたことのない彼らが怖がったのも無理はない。
黒柳が、東京大空襲を契機に疎開したのは青森県。以前、たまたま列車で隣になったリンゴ農家と仲よくなり、手紙やリンゴを送ってもらうなどの交流が続いていたためだ。
2017年11月7日のインスタグラムで、黒柳はセーラー服に身を包んだ当時の写真をアップし、こう綴っている。
<この写真を見て、『かわいそうに、随分緊張して暮らしていたんだね』と、言ってくれた人がいました。夜になると、空襲や爆撃のある東京から逃れて、知り合いを訪ねて、青森に疎開。父は、出征して兵隊になり、どこに行ったのかも、分かりませんでした。確かに、私は、緊張して生活していたのかもしれませんね>
母親が作った洋服に黒いエナメル靴を履き、頭には大きなリボンをつけるなど、おしゃれ好きだった黒柳。疎開すると、その生活は一変した。
<東京から持っていった洋服も、ボロボロになってしまい、足は、どんどん大きくなって、お気に入りの靴は入らなくなりました。従姉妹に貰った、このセーラー服にモンペのズボン、そして、下駄というのが、私の唯一のよそゆきでした>
ちなみに、黒柳の父は終戦時に満州にいたため、シベリアに抑留された。帰国できたのは1949年末のことだ。
84歳にも関わらず、テレビ出演を精力的にこなす黒柳。インスタグラムのフォロワー数も93万人を越えている。彼女の発言は、現代の若者たちにとっても貴重な証言となるだろう。