エンタメ・アイドル
『電波少年』アポなしロケはこうして生まれた
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2019.06.23 11:00 最終更新日:2019.06.23 11:00
1992年にスタートし、平成を代表する伝説的番組『進め!電波少年』(日本テレビ系)は、猿岩石のユーラシア大陸横断ヒッチハイクをはじめ、数多くの人気企画を生み出した。その演出・プロデューサーを務めたのがT部長こと土屋敏男(62)だ。
還暦を過ぎ、今年で日本テレビ入社40年になる現在も、新しいことに挑戦し続ける土屋プロデューサーに話を聞いた。
【関聯記事:『家、ついて行ってイイですか?』ディレクター70人が選ぶ神回】
――今回は新感覚ライブエンタメ「NO BORDER」のプロデューサーを務めているそうですが。
土屋 はい。世界最先端の3Dスキャナで、来場したお客さんをスキャンして、アバターになったお客さんが舞台上で踊りだすというものです。見たことないもの、世界に今までないものを作りたいという思いから……電波少年もそういうつもりで作ったし、間寛平さんのアースマラソンもそうだし、今回も自ら考えて技術を見つけてきました。
――そういった新しいものに対して常にアンテナをはってるということですか?
土屋 妄想でしょうね。こんなことができたら面白いだろうなということを考えているわけですから。(専門家が)「こういう技術があるよ」「だったらできるじゃん」みたいなことです。
――そういうことで言うと、『電波少年』のセットが1992年当時でCGというのは画期的だったんじゃないですか?
土屋 CG自体は当時からありましたが、テレビのセットに使うことはなかったですね。(電波少年で)たとえば驚いて目が飛び出すとか、耳がダンボになるとか、破裂するとかあったじゃないですか。
あれは、たまたま展示会を見に行ったら、当時ソニーのストレッチマシーンというのが出展してあって、「これって感情のデフォルメに使えるよな」と思ったんです。ストレッチマシーンを開発した人間はそんなことに使って欲しくなかったと思うんですけど。それを俺は、びっくりしたときに目をドーン! と出したりするのに使ったんです。
――あれをやりだしたのは土屋さんだったんですね。
土屋 はい。
――電波少年といえば、アポなしが有名でした。アポなしロケをやり始めたきっかけは、バスケの岡山恭崇選手の取材が直前でNGになったので、しかたなくアポなしで行ったらうまくいったことから始まったそうですね。でも、取材NGを出した岡山選手の所属先がよく放送許可を出しましたね。
土屋 放送は黙ってしました。
――マジですか! 許可を取らずに放送するってすごいですね。
土屋 当時、アポを取らずにロケをやるってことがなかったから、アポを取らずにやるときのルールがまだ決まってなくて。でも所属先から怒られなかったですよ。
猿岩石のヒッチハイクも、当時はテレビで使っちゃいけない、小さい一般の家庭用カメラをディレクターが持って、猿岩石と3人でやったから、ヒッチハイクできたんですよ。
――当時はロケでも大きいカメラを、カメラマンさんがかついでましたからね。小さい家庭用カメラをディレクターさんが回すというのも、そのときはまだなかったんですね。
土屋 はい。最初に小さいカメラで撮った映像を、放送するところに持っていったら「何で撮ったんだ? こんな画質の悪いのは放送できない」って言われて。「でも他に映像はないですよ」って脅したら「しょうがねぇなぁ」ってOKが出るわけですよ。それでバラエティ番組のロケで小さいカメラを使うようになったんです。
――小さいカメラも、了承を取らずにいきなりロケで使っちゃうというやり口は、アポなし取材と一緒ですね(笑)。
土屋 そうそう。それで開き直る(笑)。相談したら「ダメ」って言うに決まってるから。だから黙ってやるのよ。
※ライブエンタメ『NO BORDER』は7月7日から9月16日まで、大阪クールジャパンパークで開催
取材・文/インタビューマン山下
1968年、香川県生まれ。1992年、世界のナベアツ(現・桂三度)とジャリズム結成、2011年に解散。同年、オモロー山下に改名し、ピン活動するも2017年に芸人を引退。現在はインタビュアー・お笑いジャーナリスト