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寺島進、思い出の焼肉店で「松田優作と北野武の教え」を語る
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2020.01.17 11:00 最終更新日:2020.01.17 11:00
寺島進(56)の実家は、東京の下町・深川の畳店だった。
「い草(畳の素材)の匂いを嗅ぐと、亡くなった父親を思い出しますね。父は家の事情で畳屋を継ぐしかなかった。俺には『高校までは出してやるから、好きな道に進め』って言ってくれました」
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将来、何をしようか。そんなとき、近所の知り合いが持ってきたのが「三船芸術学院」のパンフレットだった。
「三船敏郎さんのプロダクションの隣に、養成所があったんです。パンフレットを見たときに、『芸術』って言葉がピカッと光って見えてね。体育と図工だけは得意だったんですよ。アルバイトで学費を稼ぎながら、通いました。
いろいろなカリキュラムがあるなか、黒澤映画に欠かせなかった殺陣師・宇仁貫三先生(2019年1月没)の殺陣の授業をとったんですよ。木刀を振ったり、空手アクションをしたり。すぐに夢中になりました」
殺陣師、スタントマン……。“縁の下の力持ち” に憧れた。
「宇仁先生主宰の『剣友会』に所属した縁で、いまも北野武作品などで活躍する、二家本辰己さんに出会いました。二家本さんが殺陣を担当する舞台で、『忍者の役が欲しい』ということで、俺を抜擢してくれたんです」
この舞台の本番2週間前。ある稽古でのことだった。
「『兄貴が来るよ、兄貴が来るよ』って、やたら稽古場がざわついてるんです。誰かと思ったら、風のようにフワッと目の前に、松田優作さんが座ってたんですよ。途端に、稽古場がなんともいえない空気に包まれましてね。俺は20代前半で生意気で、『なんだよ、ジーパン刑事だろ』って感じで(笑)。
でも、不思議と緊張感を持ったいいアクション芝居ができたんです。その後、着替えていたとき、優作さんが俺の肩を叩いて『これ以上テンション上げたらクサくなるし、これ以上下げると成立しない。本番は、このままでいけばいいから』と言ってくださって。
ナメてかかってたはずなのに、初めて褒められたから、直立不動で『ありがとうございます!』ってなってたね」
ハンドボール部に所属していた高校時代から、遊び場は錦糸町だった。この街の焼き肉店「三千里」にも、10代のころから通い、40年以上になる。
「ここのコムタンスープ、本当にうまいんですよ。昔は最後に残ったテールの肉を、実家で飼ってた柴犬にお持ち帰りしてましたね」
寺島にとって焼き肉は、青春の味であり、出会いの味でもある。舞台出演が縁で、松田優作の初監督作『ア・ホーマンス』(1986年)にも、ヤクザの役で出演。撮影後、数人で夜道を歩いていると、黒いセンチュリーがゆっくりと走ってきて、真横で停まった。
「後部座席の窓が下がると優作さんで、『これからメシ食いにいくから、一緒に行こうぜ』と、焼き肉屋に連れていってくださった。優作さんの隣に座ってガッパガッパ食べてたら、ほかの人間に『あの状況でよく食えたな』って。
焼き肉は、なかなか食べられないご馳走だったから嬉しくってね。ラクダになって、食いだめしたかったですよ(笑)」
褒められただけではなく、怒られたことも思い出だ。
「舞台の稽古場で『ガラガラ、ペッ!』とうがいをしたとき、優作さんに『ここは神聖な稽古場だ。そんな下品なうがいをするなら、トイレでやってこい』と怒られました。いまでも、稽古の合間にうがいをするたび、優作さんに怒られたことを思い出します」