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関東大震災「100年前の犠牲者名簿」が高野山に保存されていた…当時の東京市長が私費で始めた「1万年保存計画」

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2023.09.01 06:00 最終更新日:2023.09.01 06:00

関東大震災「100年前の犠牲者名簿」が高野山に保存されていた…当時の東京市長が私費で始めた「1万年保存計画」

関東大震災の被災死亡者名簿「1万年保存計画」を実行した永田秀次郎氏(写真・『梅白し:青嵐随筆』より)

 

 1923年9月1日、11時58分。お昼どきを迎えた東京を、マグニチュード8.0前後の大地震が襲った。10万人あまりの死者・行方不明者を出した関東震災から、ちょうど100年の月日がたつ。

 

 当時の東京市長だった永田秀次郎(ひでじろう)氏は、市長就任からわずか3カ月で、関東大震災を経験した。東京市役所の市長室でその日を迎え、以降は事態の収拾に奔走することとなった。

 

 

 とくに甚大な被害が出た、深川周辺の被服廠(ひふくしょう)跡では、炎まじりの竜巻状の渦が発生し、約3万8000人が焼死したとされる。猛暑が続いていた9月、遺体はどんどん腐敗し始めた。永田氏は、遺体の山へ石油を流し、荼毘に付す決断を下している。

 

 やむを得ない判断だったとはいえ、名前もわからない多くの遺体を供養しきれなかったことに、永田氏は重い負い目を感じていたようだ。のちに書いた「一萬年」という随筆のなかで、永田氏はこう語っている。

 

《震災の為に死んだ人達は自分の罪業で死んだのでは無い。之は真に気の毒である。霊魂が若しあるならば、之を慰めてやりたい。斯く思ふのは人情である。殊に私の様な、多数の傷死者の臨終を目撃し、また多数の死屍を自分の指図で、焼却処分した者にとっては、之を感ずる事が一層切実である》(『梅白し:青嵐随筆』永田青嵐)

 

 震災の翌年から、永田氏は震災死亡者の身元調査を進め、約5万4000人の犠牲者名が判明した。市長を退任したのちは、私費を投じて、高野山金剛峯寺の奥の院に霊牌堂を建立。さらに、震災で犠牲になった人々の名簿を「できる限り永久に保存する方法を考えたい」として、「1万年保存計画」を実行したのだ。

 

 記録によれば、各所に相談した永田氏は、タイルと文書による保存を選んだ。タイルは、自身の故郷でもある淡路島の淡陶社(現・ダントー)に作らせ、1面75名、両面150名の名前を刻んでいった。

 

 文書の保存に関しては、東京電気に委託されることになった。同社研究所副長・八巻升次氏が書き残した「関東大震災殃死者名簿 一萬年保存方法」という記述が残されている。これによれば、文書は内閣印刷局に特別につくらせた上質な紙に、墨で犠牲者の名前を記した。紙の保存には、湿気を排除し乾燥状態を保つ必要があるため、名簿をガラス瓶に入れ、空気を排除したうえで内部を窒素ガスで満たす。さらに外側に鉛板を巻く形でまとめられたという。

 

 1930年に霊牌堂は建立され、犠牲者の名前を記したタイル・文書が奉納された。霊牌堂建立の願文冒頭で、永田氏は《高野山奥の院のほとりに関東大震災霊牌堂の建立を見た事は、さながら我身の重荷を卸せし心地せらる》と記している。なお、実物に関しては、2013年から東京藝術大学所属の坂口英伸氏が現地調査を進めており、霊牌堂地下にひっそりと保管されてきたことが明らかになった。

 

 高野山の広報担当者は、犠牲者名簿についてこう語る。

 

「たしかに、関東大震災の霊牌堂と名簿はこちらにございます。タイルや文書は、奉納されたものという扱いのため、基本的には現在も霊牌堂に置かれています。ただ、10年ほど前に学者さんの調査が入っており、その際、きれいにした分のタイルは、金剛峯寺で保管しております。

 

 また、おそらくですが、劣化というのはほとんどないとは思います。木製品でしたらすでに腐っていたでしょうが、タイルですから、外部からかなり強い力がかかったり、災害が起きたりしない限りは、燃えることも、腐ることもないはずです。

 

 保管に関しては、人目につかないところに置いております。人がさわるということもまったくしておりません。霊牌堂や倉庫のほうで保管していくことになるはずです。もうこのまま、静かに置いておくのがよいのでは、と思っております」

 

 関東大震災の発生からまだ100年と考えると、永田氏の掲げた「1万年保存」はあまりに途方もない期間だ。実現できるのかは、今後、長い期間をかけて証明していくことになる。

( SmartFLASH )

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