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人はなぜ人を殺すのか…犯罪学者が「改宗の心理」をもとに考えたら

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2023.11.27 16:00 最終更新日:2023.11.27 16:00

人はなぜ人を殺すのか…犯罪学者が「改宗の心理」をもとに考えたら

 

 人は、なぜ殺人を犯してしまうのか。その理由を探るなかで、犯罪学者ド・グレーフの目にある研究が留まります。パリ大学神学部教授ラウル・アリエーによる、『非文明人の改宗の心理』(1925)です。キリスト教以外の宗教を信仰する人々が、宣教師との出会いを通じてキリスト教に改宗する過程を追った研究でした。

 

 改宗とは、人間にとって重大な行為です。しかも別の神が信じられている社会において、改宗は反社会的行為にもなります。それほどまでにエネルギーもいるし、リスクもあるのに、なぜ人間は別の宗教の信者になるのでしょうか。

 

 

 その心理は、同じくエネルギーもリスクも要する反社会的行為、犯罪へと向かう人間の心理の解明にヒントをくれるのではないかとド・グレーフは期待したのでした。

 

 改宗には、ヴェラニ(自ら宣教師に近づきプロテスタントに改宗した19世紀のフィジーの若者)のような意識的な改宗もあれば、自覚しないで起こる改宗もあります。アリエーが研究したのは、この無自覚の改宗でした。

 

 改宗とは、出来事自体は一瞬ですが、それなりの準備期間を要する行為です。その準備期間のなかで、新しい自分がゆっくりと形成されてゆき、それまでの自分と対立するようになるのです。それまでの自分は、新しい自分が形作られることにも、新しい自分が前面に出てくることにも抵抗します。

 

 その対立のなかで、ときに少しずつ、ときに突然、それまでの自分に新しい自分が取って代わることになるのです。この対立のなかでまず現れるのが「無効の同意(assentiment inefficace)」であるとアリエーは言います。

 

 非キリスト教徒のなかには、宣教師の話を聞きながらうなずく人がいます。必ずしも本心からではなく、礼儀からかもしれません。宣教師に「同意します」と言ってくる人もいます。いくつかの地域では、新しいことを始めるときに「同意する」という言葉を使うからです。

 

 つまりうなずいたり「同意」という言葉を口にしたりするからといって、宣教師の言っていることに完全に賛同しているというわけではありません。同意はいわばまだ無効の段階にとどまっているのです。

 

 それでも宣教師との交流を繰り返すなかで、非キリスト教徒は、話を聞くだけの受け身ではなくなってきます。自分がどこかへいざなわれているのを感じ、抵抗しなければならなくなっているのです。内なる戦いは、すでに火蓋を切っているのです。

 

■第1段階:無効の同意

 

 改宗は、キリスト教徒の側からすれば非常に好ましい行為です。それなのに改宗する人と罪を犯す人が似た心理プロセスをたどると仮定するのは、宗教界から疑惑の目で見られていたド・グレーフには勇気のいったことでしょう。

 

 ですが、それまで何の問題もなく生きてきた人が別の宗教に心動かされるように、それまで何も問題を起こさなかった人でも、誰かがいなくなってくれればと考えることはあります。そうした考えは、たいてい知らないうちに消滅するけれども、ときとして残り続け、実現に向かってしまうことがあるのです。

 

 ド・グレーフが調べたところ、重大事件のうち、着想から犯行までの時間が3時間以内であったケースは、全体の3分の1以下でした。残りの3分の2は、3時間以上、ときには数年後に起こっていたのです。つまりその3時間から数年の間、犯人のなかで、誰かを殺すという考えは持ち上がるたびに打ち消されていたということになります。

 

 車好きのド・グレーフは、車を買うときのことを例に挙げています。知り合いの車談義を聞くなかで、「車を持つのもいいかもな」と思うようになります。事故の話を耳にすれば、「やはりやめたほうがいいのかもしれない」と思うでしょう。それでも、ときに否定されながら、車を買う決意は少しずつ育まれてゆくのです。

 

 こうして車を購入するに至ったとき、まわりは「突然」大きな買い物をしたと驚くことでしょう。大きな決断をする前には、心のなかで結晶化が起こっているのです。

 

「無効の同意」はその第一段階です。改宗も犯罪も、所属する社会に逆らう決断であることから、第一段階には長くとどまることがあります。この間、非キリスト教徒であれば、「改宗までする必要はないだろう」とか「もう少し先でいいだろう」と自分に言うでしょう。

 

 それは、「こんな大それたことをできるわけがない」という思いの裏返しでもあります。すべては自分にかかっているということは薄々わかっているのに、待てばなんとかなるのではないかと期待して、いまはほんの少しの努力で済むようなことでやり過ごそうとするのです。

 

 非キリスト教徒が教会に入ってみたり、洗礼を受けるそぶりを見せたりするのはそのためだといいます。そのようすを見て、新米の宣教師であれば喜んでしまうことでしょう。

 

 でもそれは無効の同意、本人の側から言えば「あいまいな同意(assentiment mitige)」にすぎません。このように第一段階は、心のなかに何かしらの考えの核が入りこみ、結晶化しようとしているのをぼんやりと感じ、その結果について考えてみなくもないけれども、まだたいしたことではないと思っている段階なのです。

 

 このときの非キリスト教徒を殺人犯に置き換えてみるとどうでしょうか。きっかけはいくつかあるといいます。誰かが亡くなる夢を見る。誰かの死亡通知を受け取る。誰かの葬儀の鐘(日本ならば告別式の車のクラクション)を聞く。交通事故や炭鉱事故(労働災害)の報道を目にする。殺人に関する三面記事(ニュースや週刊誌)を読む。

 

 こうしたとき、誰かに対して、それまで意識しないようにしていたことがよみがえり、こう思ってしまうのです。「これがあいつの身に起こればよかったのに」「いい人に限って早く亡くなってしまう。それに対してあいつは……」

 

■第2段階:有効な同意

 

 非キリスト教徒の改宗に話を戻しましょう。無効、ないしはあいまいな同意の段階にとどまる心のなかで、戦いが始まりました。本人がその戦いを指揮することはできません。次々に現れてくるあらゆる感情に、むしろ本人は翻弄されています。

 

 何かがのしかかっているのを感じ、食欲が減り、不眠に悩まされ、苦しんでいることが傍目にも気づかれるほどです。宣教師がもたらした考えに抵抗するために、新たに妻を娶るなど、もとの宗教に忠実な行動を取ることもあるといいます。

 

 いずれ心を決めなければならないことは、本人にもわかっています。ただ、自ら決心するというのは非常に大きなエネルギーを要するため、そうせざるをえないような、のっぴきならない事態が起こることをひそかに望んでいるのです。行動するまでには至っておらず、あいかわらず決定的瞬間は先延ばしにされているものの、非キリスト教徒はいわば「有効な同意(assentiment efficace)」の段階に進んでいるのです。

 

 では未来の殺人犯は、このときどのような心理状態に置かれるのでしょうか。第1段階で感じた「あいつが消えればよかったのに」という、それ自体ありふれた思いは、第2段階では「あいつを消すのは自分かもしれない」という予感に変わるといいます。

 

 本人の目線で言えば、犯行に対する「明確な同意(assentiment formel)」がなされるのです。ただ、その考えを実現することはまだありません。自分がやらなくてもいつか相手は死ぬだろうと考え、問題を直視することを避けようとするのです。

 

 それでもプロセスは進行し、「あいつを消す」という考えに賛成する感情と反対する感情が絶えず戦うようになります。相手の欠点や過ちが誇張され、相手の人格が単純化されてゆくのはこのときです。それでも「さすがにそんなことをしていいわけがない」とか、「いままで積み上げてきたものを捨てる気か」といった思いが、ときに正当化されてしまいそうな考えに抵抗させてくれるのです。

 

 第2段階は、最終的な段階ではありません。けれども、このまだ決心すらされていない段階で、何らかの偶然や酩酊状態のなかで、相手を殺すという考えにチャンスが与えられてしまうことがあります。

 

 もちろん、心の準備も犯行の準備もされていないため、たいていは失敗に終わります。後先考えない殺人未遂や、助けられるはずの相手を助けないといった不作為による殺人未遂のなかには、この第2段階での暴発が含まれているのです。

 

 

 以上、梅澤礼氏の近刊『犯罪へ至る心理:エティエンヌ・ド・グレーフの思想と人生』(光文社新書)をもとに再構成しました。犯人はこの第2段階を経て、最終的に「危機=発作」と呼ばれる第3段階へと至ります。

 

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