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京大受験を支えた「近畿予備校」「鉄緑会」そして田舎の高校生を救った「Z会」秘史

ライフ・マネー 投稿日:2023.12.29 11:00FLASH編集部

京大受験を支えた「近畿予備校」「鉄緑会」そして田舎の高校生を救った「Z会」秘史

写真:田中秀明/アフロ

 

 1979年、すばる文学賞(集英社)に松原好之さんの小説『京都よ、わが情念のはるかな飛翔を支えよ』が選ばれた。小説の舞台は1970年代前半、京都大志望の浪人生が通う予備校だ。

 

 ここには名物英語講師「須磨」がいた。こう描かれている。

 

「『私は諸君に全員、東大を目指して欲しいと思う。京大では駄目だ、早稲田ではもっと駄目だ。』独特の『須磨節』と呼ばれる講義が始まっていて、時々館内に笑い声がどっと上がる。『なぜなら京大は権力と無縁だからだ。権力志向を放棄して何が学問だ。学問とか英知とかは、権力を媒介として初めてかたちをとるのだ。権力志向のないアカデミズムはすべて欺瞞であり、逃避なのだ…』」

 

 

 須磨にはモデルがいた。近畿予備校の橋本実氏である。彼の教え子が30年以上経って自身のブログで記している。

 

「橋本先生は、だみ声で『猛勉したまえよ。猛勉!』が口癖。解釈論などそっちのけで、とてもそんな名訳できない、と受験生があきらめかねない訳を披露し、熱く語る先生だった。悪く言えば、どうしてそんな訳になるのか分からないまま、模範の訳だけおっしゃるイメージがあったが、受験生に活を入れるだけのパワーは十分にあった」(2011年9月3日)

 

 この「パワー」のおかげで教え子は京都大法学部に合格し、現在は弁護士をつとめる。

 

 関西ではかつて京都大に多くの浪人生を送り出した予備校があった。他校の追随を許さない。それが近畿予備校だった。1950年代から1980年代半ばにかけての話だ。1965年の広告は自信にあふれている。

 

「近畿では5カ年間でも京大合格率はつねに上昇を続け停滞を知りません」(「螢雪時代」1966年10月臨時増刊号)

 

 1970年代、近畿予備校の京都大合格者は次のとおり。1970年311人→71年302人→72年283人→73年334人→74年338人→75年410人→76年392人→77年333人→78年356人→79年269人。その後、80年代半ばまでは100人以上の合格者を出していた。

 

 1981年経済学部合格の男子(宮崎・宮崎大宮)は述懐する。

 

「あそこで実力をつけた。高校の授業と比べものにならない。数学なんか、毎時間が感動の連続。高校で本質を勉強して予備校でテクニックを学び、と世間は言うけど、そんなのはマスコミが喜ぶ理屈に過ぎないね。これが数学なんだあ、すばらしいなあって純粋に感動したよ。高校じゃ、こんな感動を受けた事がない」(『私の京大合格作戦1982年版』)

 

 1990年代以降、近畿予備校の生徒数は減少の一途をたどる。駿台予備学校、河合塾、代々木ゼミナールの関西進出に抗うことはできなかった。2020年代、近畿予備校の看板は残っているが、かつてのように浪人生で賑わうことはない。

 

 かつての近畿予備校の勢いを引き継いだのは関西の鉄緑会(大阪校、京都校、西宮北口校)であろう。浪人相手ではない。中高一貫校の現役生を数多く取り込んでいる。

 

 2022年医学部に合格した男子(京都・洛南)は鉄緑会漬けの受験生活を送っていた。

 

「鉄緑のことを最優先して全力で頑張れば、鉄緑の勉強だけで、英数理に関して堅牢な学力が身につきます」(「鉄緑会大阪校 合格実績と合格者の声」2022年版)

 

 一方、1960年代から2020年代の今日にいたるまで、京都大受験生に愛された通信添削塾がある。Z会だ。1931年、「実力増進会」としてスタートした。45年、戦災で添削指導は中断するが、52年に再開。1960年代になると難関大学志望の受講生が急激に増えていく。

 

 会員の東京大合格者は1955年25人→65年984人→71年1335人→77年1838人と驚異的に伸びた。この背景についてZ会は社史でこう記している。

 

「英語は再開当初から藤井豊が担当して非常に高い評価を得ていたが、数学・国語は会員から必ずしも好評を得ていなかった。このため、藤井豊は、添削者として力量を発揮していた土師政雄、山本敏夫を執筆者に起用し、教材の質的向上をはかったのである」(『80周年記念誌 未来』Z会グループ、2011年)。

 

「藤井豊」とはZ会創業者であり、名前のあがった執筆者は受験界で知られた存在だった。Z会会員の京都大合格者数は次のとおり。1959年204人→62年396人→65年429人→68年836人→74年853人→80年1143人→84年1197人→87年2075人。ここまではほぼ右肩上がりだった。

 

 1961年工学部合格の男子(京都・西舞鶴)は都市部とのハンディを埋めてくれたと絶賛している。

 

「唯一人田舎のかたすみに取り残されてしまって何とも言えない寂しさに襲われただボンヤリと机に向かっているだけの毎日が夏ごろまで続いたが、もし添削を受けていなかったらこの期間のloseは取り返せなかったかもしれない。又、いつもランキングの上位を占める秀才諸氏の実力に驚き、自分の実力と、自分が井の中の蛙であったことをつくづく思い知らされた」(「増進会旬報」1961年9月11日号)

 

 通信添削は離島や山間部の受験生に、教育内容面で大都市とのハンディを感じさせない環境を作ってくれた。Z会会員の京都大合格者数は1990年代から2000年代まで1500人前後で推移するようになる。91年1511人→95年1520人→99年1480人→2003年1476人→2007年1201人だった。2010年代以降、1000人前後を推移するようになった。2022年は937人である。

 

 インターネットの受験アプリが普及するなか、通信添削にはローテク感がある。だが、自学自習の習慣を身につけるにはうってつけだ。受験誌、予備校系の通信添削がほぼ消滅したなか、Z会のような、京都大など難関大学特化型のカリキュラムは受験生から支持されている――。

 

 

 以上、小林哲夫氏の新刊『京大合格高校盛衰史』(光文社新書)をもとに再構成しました。膨大なデータを集計し、京大受験の来し方行く末を明らかにします。

 

●『京大合格高校盛衰史』詳細はこちら

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