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白内障になったらどうなるの?世界的な画家・モネの絵で検証してみる
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2023.12.30 11:00 最終更新日:2023.12.30 11:00
見るということ、そして白内障というものを知るために、まずは意外な視点からアプローチしてみましょう。この「見る」という行為を考える上で分かりやすいのが、ある著名な画家による芸術作品と、目の変化による作品への影響です。
「睡蓮」の絵で有名なフランスの画家モネについては、皆さんも聞いたことがあるでしょう。
モネは1898年ごろから、パリの北にあるジヴェルニー村の自宅の庭に水を引き込んで池を作り、睡蓮の連作を描き始めています。1900年にはデュラン=リュエル画廊に「睡蓮の池」を展示して、徐々に人気となっていったのです。
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このころの作品は、明るい光と色彩にあふれて、印象派の特徴的な色使いがなされています。特に、緑と青の鮮やかな色彩――睡蓮、太鼓橋、木々、水に映る反射などの、光と影の織り成す刺激的な明るい彩度の高い色――で満ちているのです。
一方で、モネの晩年の絵では、色彩から緑や青の鮮やかさは消えて、茶褐色になっています。形態の輪郭は崩れて、日本風の太鼓橋の形もぼんやりしています。同じ場所を同じ作者のモネが描いたとは、にわかには理解しがたいほどの変貌ぶりです。
多くの評論家によると、妻のアリスの死や、その後の長男ジャンの死がきっかけで、このような絵を描くようになり、これが後のフォーヴィスム(野獣派。目に映る色彩ではなく心が感じる色彩を使うのが野獣のようだとされた描き方)や抽象画の始まりである、とされています。
しかし、この見方は全く間違っているのです。
私は眼科外科医として、白内障手術を中心に約25万件もの手術をしてきて、患者の術前・術後の見え方を観察しています。また、プロの画家としても彼らの見え方を注意深く観察しています。この経験から、このモネの絵画における色彩や形態の変化は、「白内障患者特有の典型的な見え方の変化」だと断言できるのです。
■白内障による見え方の変化
ここで、目に起きた問題と見え方の変化に視点を移しましょう。目の構造はカメラに似ています。カメラのレンズに相当するのが水晶体というレンズです。
白内障患者では、目の水晶体レンズの組織が変化してきます。水晶体は老化現象などにより、若い時のほぼ透明なレンズから、黄褐色のレンズに変化してきます。
このために、全体に光の透過性が下がり、全体的にぼんやりと見えるようになります。さらに、ピンクなどの淡い色は見えなくなりますし、ものの境界もはっきりとは見えなくなってくるのです。また、透過光が減るので、全体的に雲がかかったようになり、暗く見えますし、視力も落ちるのです。
また、白内障になった水晶体の色である黄色やオレンジ色、この補色である、青や紫、濃い緑色などの光の短波長が、黄褐色化した白内障水晶体で吸収されます。このために青や紫や濃緑色のものから来る光は吸収されて、黒色のものと区別がつかなくなります。
そのため、白内障患者にとっては、青い靴下と黒い靴下が両方とも黒く見えるようになるのです。また、紫色の派手なシャツやズボンが、黒いシャツやズボンに見えるのです。また濃緑色も黒っぽく見えるようになります。
ここで気づくでしょうか? 晩年のモネの絵は、黒ずんだ茶褐色の色彩となり、かつ形態もぼんやりしてくるのです。モネの絵画の変化は、まさに典型的な白内障患者の見え方の変化なのです。
■モネの苦闘
モネの目は、1904年ごろから白内障を発症します。1908年のイタリアのヴェニス旅行での絵画制作で、視力が悪くなり色彩がうまく使えないことを嘆いています。
先ほど説明しましたが、白内障は透明なレンズが黄褐色を帯びたレンズとなりますので、黄褐色のガラスを通してものを見るようなものなのですね。色彩をうまくとらえられないことで、モネは作品への不満から、自分自身で多くの油彩画を廃棄しています。
モネの眼科記録を調べたところ、1912年には、地元の眼科医から両眼の白内障との診断を受けています。さらにその後も、当時の多くの著名な眼科医の診察を受けています。手術も勧められているのですが、当時の白内障手術の技術は低かったため、視力を失う危険性も高く、モネは手術を恐れて、手術は受けたくないと拒絶しているのですね。
モネは白内障が進行した1918年の手紙で、「もはや、色も分からず、赤も土色にしか見えない。桃色や中間色は全く見えない。青や紫や濃い緑は、黒く見える」という苦悩を書き綴っています。モネの晩年の絵画の変化が白内障の影響による変化だったことを、モネ本人が述べているのです。
ここから分かるのは、評論家という人物たちが、いかに正しい情報を集めず、科学的な態度なしに、単なる感覚的な雰囲気で評論を書いているかということでもあります。
■モネの白内障手術
当時の白内障手術は旧式の嚢外法(のうがいほう)でした。まず、目の水晶体を囲むカプセルをグレーフェ刀という長いメスで切り裂き、白内障(白濁した水晶体)を洗い流します。しばらくして残った白内障の残りを洗ったり、また線維化したカプセルを切ったりします。
モネもこのような方法で、半年で3回も手術を受けたのです。結果は、凸レンズをつけた右目の矯正視力は0.4ほど出ました。しかし、人工水晶体(眼内レンズ)などはない昔なので、術後に分厚い凸レンズメガネをかける必要があったのです。
そのせいもあって、手術後のモネの目では「ものが大きく拡大し、ゆがんで見えて、色彩の感覚も全く違い、もはや画家の目は失われた」と、モネは嘆き落胆したのです。当時の眼科外科医の技術ではやむを得なかったのです。
当時の手術には、現代とは比べるべくもない問題がありましたが、モネはそれでも、メガネを装用し、さらに見え方の訓練を行ない、少しずつ慣れていきました。
そして、ジヴェルニーの家に鉄骨枠でガラス張りの大きなアトリエを作り、その中で、ジヴェルニーの池の前で描いた睡蓮の絵を仕上げていったのです。モネの制作は、1926年12月に86歳で亡くなるまで続きました。
白内障の恐ろしさがわかるエピソードだと思います。
※
以上、深作秀春氏の新刊『白内障の罠』(光文社新書)をもとに再構成しました。眼科外科医が、白内障の最新治療法など、正しい情報を伝えます。
●『白内障の罠』詳細はこちら
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