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紫式部・清少納言はどのように知識を得ていたのか…知られざる平安貴族たちの “教養” 事情

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2024.07.28 11:00 最終更新日:2024.07.28 11:00

紫式部・清少納言はどのように知識を得ていたのか…知られざる平安貴族たちの “教養” 事情

紫式部(写真:New Picture Library/アフロ)

 

『枕草子』には、男性官人と女房の知的なやりとりが多く記されており、当時の貴族の中国の書物(漢籍)についての豊かな教養のほどが知られる。『枕草子』や『源氏物語』に漢籍の影響があることは比較的よく知られるが、程度の差はあれ、ほかの仮名文学も同様である。

 

 もっとも漢籍由来の表現は自然な日本語の表現へとやわらげられており、こうした知識がもはや日常語の一部となっていることを感じさせる。これらの中国知識は、おおむね承和年間以前に入ってきた漢籍、つまりは唐代以前の書物によって成り立っていた。

 

 ここで注意したいのは、清少納言らの教養は、基本的には漢学の入門書(幼学書)の範囲を超えていないことである。しばしば清少納言が特別高い知識を持っていたかのように語られがちであるが、そうでないことは文学研究ではほぼ定説となっている。

 

 それでは彼女たちは、どのようにして知識を得ていたのだろうか。

 

 

 この時期、中国知識は広い層に浸透していくが、皆が難解な漢籍の原典を読みこなせたわけではない。男性の場合、まずは幼学書(『千字文』『蒙求』など)を通して、いわばダイジェストのかたちで漢籍を学習した。

 

 もう少し大人になれば、専門的な学習も行なわれた。

 

 女性の場合、どこまで本格的な漢籍学習を行なったかは不明だが、少なくとも女房として娘を出仕させるような階層の家であれば、『千載佳句』『和漢朗詠集』といった名句集に収められた漢詩の知識をはじめ、ある程度の専門的な知識を身につけることは可能であったはずだ。紫式部が弟よりも先に漢文の内容を覚えてしまったのは、有名な話である。

 

 加えて、貴族の日常会話には漢籍の知識が含まれていたし、中国を題材にした絵画や物語も存在したから、ある程度は自然に中国知識を得ることができた。

 

 10世紀になると、それまで日本で蓄積されてきた膨大な量の知識が、収集・整理されるようになる。これにより、唐以前の中国文化は、当時の日本の価値観に沿って再整理され、ある種固定化された。

 

 先に挙げた『千載佳句』はその一例で、中国や新羅の漢詩文から優れた句を撰んだものである。漢詩と和歌の秀作を撰んだ藤原公任撰の『和漢朗詠集』は、のちには幼学書としても読み継がれる。『古今和歌集』や『源氏物語』をもしのぐ数の平安時代の古写本が現存する、まさに国風文化を代表する古典である。

 

 平安中期の仮名文学で引用される漢詩の多くは、これらの範囲に含まれる。平安貴族の教養とは、基本的にはこうした10世紀から11世紀初め頃の整理によって再構築された中国知識であり、国風文化もこの上に成り立つものであった。

 

 10世紀以降の日本における中国文化の実態は、大きく2つに分別される。1つは最新の中国文化、もう1つは9世紀までに入ってきた唐以前の中国文化である。

 

 前者は必要に応じて採り入れられ、国内の中国知識がアップデートされていった。後者は日本に適したかたちで再整理され、「日本の中の中国文化」の根幹を構成した。

 

 こうして見ていくと、中国文化の影響が続くとはいっても、同時代の中国文化をひたすら模倣しようとした8世紀とも、目指すべき理想像に向かって中国化を進めていく9世紀とも、やはり状況が異なるように思われる。

 

 10・11世紀には、それまでに受け入れてきた中国文化を日本化しながら尊重し続け、最新の中国文化を受容するにしても、選び取る側の主体性が一層強くなる。どちらの動きでも「日本」という面が強くなっているといえるだろう。

 

 

 以上、有富純也編の近刊『日本の古代とは何か 最新研究でわかった奈良時代と平安時代の実像』(光文社新書)の第5章「“『唐風文化』から『国風文化』へ”は成り立つのか」(小塩慶執筆)をもとに再構成しました。同書では奈良時代と平安時代はどう違うのか、新しい歴史像・国家像を示します。

 

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( SmartFLASH )

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