ライフ・マネーライフ・マネー

「左の『ピッカリ投法』がモチベーション」右腕切断の元近鉄・佐野慈紀氏が明かした「闘病」「1億円リリーバー」「野茂との関係」

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2024.08.02 18:00 最終更新日:2024.08.02 18:00

「左の『ピッカリ投法』がモチベーション」右腕切断の元近鉄・佐野慈紀氏が明かした「闘病」「1億円リリーバー」「野茂との関係」

リハビリを続ける佐野氏。失った右腕の代わりに左腕で投げることが目標だ

 

 2024年5月、感染症の影響などにより、右腕を切断した元プロ野球選手の佐野慈紀氏。近鉄などで右投げの中継ぎとして活躍し、引退後も持ち前の明るさを武器に、OB戦などで活躍した。今回、その失った“相棒”とともに戦い抜いた現役時代のことを中心に、話を聞いた。そこには、「ピッカリ投法」で知られる明るいキャラクターからはうかがいしれない、苦悩があった。

 

ーープロに入っていきなり、1軍キャンプでしたね。

 

 最初はまわりの投手のすごさに驚愕しました。でも、この人たちと一緒に野球がしたいと思って、なんとか隙間でもいいから入り込みたいと、必死でした。キャンプであこがれの阿波野(秀幸)さんからは、「いま、春先だから、インコースに投げたらみんな打たへんよ、手が痛いから」とアドバイスをいただきました。インコースに投げるのは得意だったのでやってみたら、1軍の打者でも詰まるんです。それを仰木(彬)監督が見てくれていたのか、紅白戦やオープン戦でもチャンスをもらい、好投することができました。

 

 

ーー公式戦に入っても調子はよかったですね。

 

 きっかけがあったんです。開幕してから何試合か投げさせてもらって、無難に抑えていたなかでの、忘れもしない西武戦。その試合ではぜんぜん通用しなかった。1アウトか2アウトで満塁になって、バッターは秋山(幸二)さんで、絶体絶命のピンチでした。

 

 でも、そこで開き直ったんです。それまでは丁寧に投げていたんですけど、相手はあの秋山さんやし、自分の真っすぐがどこまで通用するか、やってみようと。で、キャッチャーの光山英和さんのサインに首を振って、インサイドの真っすぐばかり投げました。

 

 初球145km/hを空振り、次も146km/hを空振り。最後はレフト線にツーベースを打たれて、完璧にノックアウトでしたけど、僕のなかで「これくらい投げられるんや」と再確認し、自信になったんです。

 

 ただ、ベンチに帰ったら、光山さんが仰木さんに怒られていたんです。「ミツ、お前、なんで真っすぐばっかり投げさすんや!」と叱責されながら、光山さんは直立不動で、はい、はい、と聞いていて……。悪いことしたなと。それで光山さんに謝りに行ったら、「ええんや。お前、ええ真っすぐ投げるやんか。いつもあれくらい投げてこい」と言ってくれました。

 

ーー当時のリリーバーは1イニング限定じゃなかったり、連投も多かったのではないですか。

 

 僕のキャリアハイは、シーズン中90イニング以上投げたこともありました。リリーフだけで、ですよ(筆者注:4年めに93回1/3、6年めにキャリアハイとなる97回2/3を投げている。いずれも先発はゼロ)。

 

 連投は、最高で4日。3連投中に9イニング投げたこともあります。さすがに3試合めは打たれましたね。でも、それくらい元気だったんです。2年めに1カ月だけひじ痛で休みましたが、あとは手術(右ひじの靱帯再建手術)をするまで、けがらしいけがをしなかったですね。

 

 それだけリリーフをやって気づいたのは、ゲームの支配権を持っているのは、先発でも抑えでもなく、リリーフじゃないかなということ。試合の流れも、リリーフの出来次第で変わるでしょ。先発が試合を作って、抑えが試合をしめて、中継ぎは試合を支配する役割なんじゃないか。「これは、オレにはいい仕事やな」と思い、極めようと。結果的に1996年オフの年俸更改で1億円に達し、中継ぎ投手では初の大台だといわれました。

 

ーーその後、仰木監督から鈴木啓示監督に交代しました。

 

 それまでのチームの雰囲気がガラリと変わりました。ある先輩が、投手陣の総意として鈴木監督に意見を伝えてくれたのですが、すぐにファームへ落とされ、トレードなどで阿波野さんや吉井理人さん(現・千葉ロッテ監督)らがいなくなりました。チームは下位に低迷し、みんなモチベーションが下がりましたね。でも、僕が引退して評論家になった後、鈴木さんと少しだけ話をして、相手はどうかわからないけど、僕のなかのわだかまりはなくなりました。

 

ーー1997年オフ、右ひじの靱帯再建手術、いわゆるトミー・ジョン手術を受けましたね。

 

 正直、ホッとしました。当時、反発心ばかりでやっていたから、野球がぜんぜんおもしろくなかったんです。球団に対しても不信感がありました。手術で1年間、投げられないことにショックを受けるよりも、もう1回、土台を作り直そうという気持ちでした。

 

ーー手術後に変化はありましたか。

 

 投げる感覚のズレがあって、実際にひじの角度もちょっと変わっていました。外角いっぱいに狙ったボールが少しなかに入ったりして、その修正もなかなかできなかった。体全体を強化したから、調子がいいときはスピードが出るけど、調子が悪いとぜんぜんダメ。調子が悪いときに、悪いなりのピッチングをすることができなくなりましたね。結果的に引退するまで、そのあたりの感覚は戻りませんでした。

 

ーーその後、トレードで中日に移籍しました。

 

 やる気満々で入ったんですが、開幕を迎える前に、ふくらはぎを痛めて2軍行きとなり、なかなか1軍に上がれなくて、メンタルはガタガタでした。ようやく1軍に上げてもらってからも、ある試合で打たれて自分のふがいなさに腹が立って、ベンチ裏でそこらじゅうを蹴りまくって、めちゃくちゃにしてしまいました。それで再び2軍に落ち、結果的に最後まで1軍に上がることもなく、オフにクビです(中日では11試合登板。1勝0敗0セーブ0ホールド、防御率8.10)。

 

ーーいまからは想像つきませんが、相当、荒れていたんですね。

 

 ある日、ジャイアンツ戦で打たれて腹立って、いまだから言えますけど、わざと川相昌弘さん(現・巨人1軍コーチ)にぶつけにいったんです。そしたら僕の意図を察して、中日のファーストのレオ・ゴメスが真っ先に僕のところにやって来て、「お前、何やってんだ!」と怒っていました。実際には当たらなかったし、川相さんが僕に向かってこなかったから、乱闘にはなりませんでしたけどね。川相さんにはあとで謝りました。

 

ーー中日を退団した後は、アメリカに渡りましたね。

 

 シカゴ・カブスが受け入れてくれるという話があったんです。日本でも長年プレーしたレオン・リーがカブスに戻っていて、調整してくれたみたいです。契約のない練習生のような形で、スプリングトレーニングに参加したのですが、それは本来は認められないものだったようで、ほかのエージェントからカブスにクレームが入り、数日で終わってしまいました。どうしようかと思っていたら、独立リーグの話が出て、エルマイラ・パイオニアーズというチームに行くことになりました。それがあなた(筆者)との出会いだね。

 

ーーニューヨーク州の山のなかのチームでしたね。当時、私は無給のインターンとして、そのチームに来たばかりでした。「お前、通訳できるだろう。日本人選手を獲るぞ」と、当時の監督に言われたのを覚えています。

 

 彼こそ、その後、オリックスに打撃コーチでやって来たジョン・ディーバスですね(2007〜2008年)。「ディボ」が愛称だった。娘が体調不良になったとき、病院まで来てくれたんですよ。いい人でしたね。後に日本に来るなんて、不思議な縁ですよね。当初、ここで失敗したら野球をやめないといけない、という危機感が強かった。でもまわりの選手がすごく話しかけてくるし、楽しそうなのが不思議で仕方がなかった。日本と違って、ダメだったらすぐにクビという世界。彼らも必死かと思ったら、あまりに楽しそうで。能天気なのかな、とすら思っていました。

 

 それで、片言の英語で聞いてみました。そうしたら笑いながら、たとえクビになっても野球はどこでも続けられるし、好きなことを思いっきりやれたら最高じゃないか、みたいなこと言っていましたね。

 

 それを聞いて、ハッとしました。日本にいたときもそうだったはずなんです。やるだけやってダメなら仕方ないという気持ちで、危機感なんてなかった。それを彼らが思い出させてくれた。それから、みんなとしゃべれるようになりましたね。

 

ーー佐野さんの用具契約も羨望の的でしたね。

 

 当時は僕もメーカーの用具提供を受けていて、衣類が送られてくるから、みんなびっくりしていました。アンダーシャツを貸してくれと言われて、渡したら返ってこないんですよ。「お前、くれただろ?」って。靴も届くんですけど、「シゲキのサイズは小さすぎる」とみんな怒るんです。いや、なんでお前らが履くねん、と。

 

 そういうことも含めて、エルマイラではいい思い出しかないです。まさか先発するとは思わなかったけど、みんなの一生懸命のプレーがありがたくて、こっちもテンションが上がりましたね。そして勝つことによって、より絆が深まった。それが最後まで続きました。プレーオフにも出場して、優勝はできなかったけど、ワクワクしました。いつかまた、エルマイラには行ってみたいな。

 

ーーいい思い出ばかりですか。

 

 そうなんですが、シーズンの終わりごろに「9.11(同時多発テロ)」がありました。あの日、ビザを取りに行く予定だったんですよ。信じられなかった。その年の6月、嫁さんの誕生日に、あのツインタワーで食事をしていたんです。それがたった3カ月後にあんなことになって。ひっくり返りますよね。

 

ーーアメリカでの2年めはどんな感じでしたか。

 

 最初はドジャースのマイナーに行きましたが、キャンプでクビになって、メキシコのティグレスというチームと契約しました。デビュー戦はよかったけど、その後は調子がいまひとつ。メキシコではチームに2枠しかない助っ人という立場でしたから、1カ月くらいでリリースになりました。そのころ、名前を「重樹」から「慈紀」に変えました。

 

 その後、エルマイラがまた受け入れてくれるというので、契約しました。家族もエルマイラなら、と来てくれましたよ。シーズン中にはリーグ内でトレードの話があったのですが、家族と一緒に知らない土地に行くのは難しいと思い、断りました。ひとりだったら、違う街にも住んでみたいと思ったかもしれないですね。

 

ーー海外ならではの事件などはありましたか。

 

 メキシコで乱闘があったとき、相手の若い選手が向かってきたんです。とっさに構えたら、「カラテ、ノー」と言って、それ以上近づいてこなかった。でも遠征だったので、帰りにチームバスがファンに囲まれて、怖かったです。まわりの選手たちが、「サノ、カラテ、カラテ」って言うんですけど、「アホ、行けるわけないやろ」とか言っていましたね。

 

 エルマイラでは、相手の2塁走者がサインを盗んでいるということで、僕が相手打者にぶつけざるを得ない状況に。いまはわからないけど、当時のアメリカはそういう野球でした。でも、うまく当たらなくて背中の後ろを通ってしまった。相手も当たってないから乱闘ができない。みんな笑っていました。

 

 彼らは、シーズンオフには別の仕事をしていたり、大学に通っていたり。いい経験をしましたよ。行く機会すらなかなかない街に住んでいたんですから。

 

 当時は野茂(英雄)とか吉井さんがMLBで活躍していたから、アメリカに対する思いはありました。吉井さんには、実際に会いに行きました。フィラデルフィアで、僕たちも遠征先が近くて、試合を観戦しました。野茂のこと(野茂氏が近鉄時代のチームメイトである佐野氏に対し、貸付金の返済を求める裁判を起こし、2018年9月、野茂氏が勝訴した件)ではいまもいろいろと言われていますが、彼に対しては現状、やれることはしているつもりです。

 

ーーその後、リハビリはいかがですか。

 

 リハビリは順調です。まだたいしたことはできないけど、ちょっとずつ強度は上がっています。体力だけは作っていかないと、何も活動できませんからね。左の「ピッカリ投法」はひとつのモチベーションになっています。

 

 いままでは野茂の件もあって、表に出ないようにしていたけど、今回のことでいろいろ声がかかるようになりました。糖尿病とか心臓のこととか、調べて学んでいる一方、ブログもまた書くようになりました。似たような境遇の人が、勇気づけられるとコメントしてくれています。僕にできることは元気な姿を見せることくらいですからね。

 

ーー前回、お会いしたときよりだいぶ元気そうに見えますよ。

 

 薬が効いているのか、心臓の調子はいいです。でも手術したわけではないので、慎重にやっていきます。(右腕切断の)傷口がふさがったら退院できますけど、食生活が変われば体重も増えるかな。いまは60kgしかないんですよ。中学生以来です。太りたくはないけど筋肉をつけたいですね。退院したら「チョコザップ」に通わないと。

 

 

 体調が決して優れないなか、2度にわたる取材を快く受けてくれた佐野氏。野球の話をしているときの目つきや表情が、現役時代のように生き生きとしていたことを、現役時代を知る筆者は見逃さなかった。佐野氏の今後にエールを送りたい。「佐野さん、かがや毛〜!」

 

取材・文/小島一貴

( SmartFLASH )

続きを見る

今、あなたにおすすめの記事

ライフ・マネー一覧をもっと見る