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「個性的な人間がいなければ世の中は淀んだ沼」ミルの『自由論』で学ぶ「独創」「天才」の重要さ
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2024.12.28 11:00 最終更新日:2024.12.28 11:00
ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』は、自由主義(リベラリズム)の古典だと言われます。ミルは本書で、言論の自由や行動の自由などの個人の自由が、本人や社会にとっていかに重要かについて論じています。
逆に言えば、政府や社会が個人の自由を抑圧することが、個人や社会にとっていかに大きな損害となりうるか、ということを説得力のある仕方で論じています。
ビジネスパーソンや政治家、政策立案者向けには、『自由論』の内容を次のように紹介することができます。
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「社会の停滞を防ぐには、社会の革新を生み出すような天才が育つ土壌を保つ必要があり、そのためには他人に危害を加えない限り、人々に最大限の自由を認め、多様な人生の実験ができるようにしなければならない」
ミルは、個性が単に当人の幸福にとって有用であるだけでなく、社会にとっても有用だという話をします。個性的な人が多いと社会に活気が溢れる、ということです。
町内に織田信長みたいな人がたくさんいる社会を想像すると、戦国時代に戻りそうで物騒な気がしますが、信長のような人が他人の権利や利益を損ねない範囲で活躍してくれると、社会も活気づいて発展するというわけです。
また、ノーベル医学・生理学賞や物理学賞のように、科学的な真理を発見する人が我々人類にとって貴重であるのと同様に、新しい営みを始める人も貴重だと言っています。スティーブ・ジョブズみたいな人を想像するとよいでしょう。
しかし、みんながみんな個性的になったり独創性を発揮したりするというのは非現実的な話ではないか、個性的なのは一部の人々だけで、多くの人はそんなに個性的にはならないのではないか――。こういうもっともな反論に対して、たしかにこういうことができるのは人類のうちのごく少数だと認めた上で、ミルは次のように述べます。
「しかし、この少数者こそ、『地の塩』である。彼らがいなければ、世の中は淀んだ沼にひとしい」
「地の塩」というのは聖書に出てくる「ソルト・オブ・ジ・アース(salt of the earth)」という言葉を訳したもので、塩のように貴重な存在だということです。このような個性的で新しい真理や生き方をもたらす人々がいるおかげで、社会が停滞せずにすみ、そのことが他の人々にとっても利益となるのだ、とミルは言います。
そして天才というのも、今まで述べてきた個性や独創性の延長で論じられています。天才も、やはり自由な環境でのみ伸びていくということを、ミルは「天才は、自由という雰囲気のなかでしか自由に呼吸できない」と言っています。
ところが、凡庸な人たちは天才を褒めながらも、世の中は天才なしでも十分にやっていけると内心では思っている、とミルは指摘します。これは個性の場合と同じですね。皆さんはどうでしょうか。自分が天才でありたいとか、自分の友人や家族、あるいは子どもが天才になってほしいと思うでしょうか。ミルは次のように言います。
「人々の考える天才とは、感動的な詩が書けたり、絵が描ける才能のことであり、そういうものとして立派なこととされる。しかし、その本当の意味、すなわち思想や行動における独創性という意味では、天才は賞賛すべきものではないとされる。たしかに、それを口に出して言う人はいないが、心の中ではほとんど誰もが、そういう天才ならいなくてもいい、と思っている。残念ながら、これはごく自然な考え方なので、少しも驚くに値しない」
野球の天才とか将棋の天才とかなら受け入れられやすいですが、ミルが言うのはルソーとかニーチェみたいな人です。今ならルソーやニーチェを我々はありがたがって読みますが、新たなルソーとかニーチェみたいな人が登場した場合、現在の凡庸な我々には彼らが言うことはおそらく理解できないので、そんな人はいてもいなくてもよいと思うかもしれません。
スマートフォンやタブレット端末だって、出てくるまでは想像もつかず、多くの人はそんなものがなくても生きていけると思っていたかもしれませんが、いざ登場して10年も経てば、生活必需品だと思うようになるのです。
別の例で言えば、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」という曲も、今でこそロックの古典と考えられていますが、当時は曲が長すぎるという理由でレコード会社がシングルカットを嫌がったという有名な話があります。ジェームズ・ブラウンの「プリーズ・プリーズ・プリーズ」も、「プリーズ」ばかり言う歌が売れるはずがないと言ってレコード会社は発売を渋ったそうです。
コロンブスの卵という逸話があるように、後から見れば当たり前のことでも、凡人には事前にはわからないものです。ミルが言っているのは、凡人にはわからないことを行ったり生み出したりするようなこうした人々を、もっと尊重する必要があるということだと思います。
ついでながら、天才的な人は普通と違うので抑圧されがちだ、というのは、現代の日本でもあることかと思います。「ギフテッド」という飛び抜けた才能をもった子どもの教育をどうするかが、日本でも話題になっています。
例えば、新聞で紹介された、小学1年生で知能指数(IQ)が154だったという子どもは、3歳の頃に路線図で漢字を覚え、幼稚園では分子や元素の図鑑を読み、小学4年生で英検準一級を取ったそうですが、幼稚園や小学校では他人と違っているため、周りとなじめずに苦しんだそうです。
幸い、この子どもは親の働きかけで先生の理解が得られるようになり、登校したい日だけ学校に行くような形にしてもらったそうです。しかし、そのような理解が得られなければ、この子どもは型にはめられて天才的な能力が抑圧される可能性があったでしょう。
我々はミルの言う「天才は、自由という雰囲気のなかでしか自由に呼吸ができない」ということの意味を真剣に考える必要があります。
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以上、児玉聡氏の新刊『ミル『自由論』の歩き方 哲学古典授業』 (光文社新書)をもとに再構成しました。「自由とは何か」という永遠のテーマに鋭く切り込んだ哲学古典をわかりやすく解説します。
●『ミル『自由論』の歩き方』 詳細はこちら
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