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鳥はどうしてエベレスト上空でも飛べるのか…低酸素でも耐えられる「スーパーミトコンドリア」の驚異
1900年代から1930年代、時は帝国主義の時代。欧州列強は国の威信をかけて、ヒマラヤ山脈の頂(いただき)を目指した。イギリスは世界の最高峰、ヒマラヤ山脈のエベレスト(8848m)の頂を、大英帝国の威信をかけて征服を目指し、何回も登攀隊を送った。しかし、そのたびに挑戦は跳ね返された。1953年、ヒラリーとノルゲイがようやく初登頂を達成したのだから、半世紀をかけて達成したことになる。
エベレストの登頂は、山の険しさのために困難を極めたのではない。スイスのマッターホルンの方がはるかに険しい。ただ、酸素濃度が低すぎた。酸素濃度が7%しかなかったからだ。この頃、8000mから上の地域は「死の地帯」といわれた。酸素濃度は7%程度しかないので、高度障害のために、酸素ボンベなしに2日以上そこに留まることができないからだ。
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エベレストの8000mに近い中継地点に、サウスコルと呼ばれる平らな場所があり、多くの登攀隊はここに最後の中間キャンプを置いた。エベレストに登頂するためには、遅くとも前日までにこのキャンプに入り、サポートする隊員から酸素ボンベを受け取る必要がある。
このサウスコルのキャンプのはるか上空を、アネハヅルの群れが越えることを、多くの登攀隊が報告している。
アネハヅルはチベットからインドへ向かうために、このエベレストの上空を越える。酸素濃度7%、気温マイナス30℃、そして風速30mの風が常に吹いているエベレスト山頂付近を越える、アネハヅルの整然とした群れ。初めて見た人はさぞかし驚いたことだろう。酸素濃度が7%しかない世界で、高度障害に苦しんでいる登攀隊員のはるか上空を、ツルが悠々と飛んでいく。
風と気温は登山着を着れば何とか耐えられる。しかし酸素濃度は別だ。地上の3分の1にあたる濃度でしかない。この酸素濃度でどうしてそんな運動ができるのか? ヒトはここに到達するためだけに数カ月の高度馴化(じゅんか)が必要で、さらに8000mを超えると酸素ボンベも必要だ。しかも数十人の登攀隊の中で、頂上に行けるのは最強の1人か2人だけだ。哺乳類にとって、低酸素への適応がいかに困難かを示す実例だ。
■スーパーミトコンドリアはゲームチェンジャー
ヒトとアネハヅルの低酸素での運動能力には、超えられない大きな差がある。ヒトのスーパーアスリートでも、アネハヅルの運動能力の領域に到達することはできない。哺乳類の運動能力は、鳥類の運動能力に遠く及ばない。酸素濃度が低下すると、哺乳類の運動能力と鳥の運動能力の差はどんどん大きくなる。
さらにいえば、鳥類の運動能力は、生物の中でも別次元のものである。
この理由は、鳥が別次元のミトコンドリアを持っているからだ。これは哺乳類のミトコンドリアとはまったく異なる。ここでは、これを「スーパーミトコンドリア」と呼ぶことにする。
脊椎動物の中で、鳥類のスーパーミトコンドリアは特別だ。スーパーミトコンドリアは、哺乳類のミトコンドリアと比較して、酸素消費が高く、活性酸素が低く、脂肪の合成が低い。ミトコンドリアだけを細胞から取り出して実験しても、明らかに哺乳類とは活性が異なる。
鳥は細胞がスーパーミトコンドリアで満たされているため、活性酸素をつくらずに、常にフルパワーでエネルギー基質を生産することができる。スーパーミトコンドリアで酸素を消費するので、鳥は驚異の運動能力を発揮することができるのだ。
スーパーミトコンドリアの出現による「酸素消費」の増加は、気嚢(きのう)システムの装着による「酸素供給」の増加と、セットで理解する必要がある。酸素の需要と供給の両面から改革を引き起こしたからこそ、低い酸素濃度の環境でも、高い効果(運動能力)を発揮する。
鳥のガス交換能力は、酸素濃度が下がれば下がるほど、哺乳類の肺とは次元が異なることが明確になる。たとえば、鳥の酸素吸収能力は、20%の酸素濃度の時は、哺乳類の30%程度高いだけだが、10%の酸素濃度(たとえば高度6000m)においては、哺乳類の肺よりも200%効率が高い。
スーパーミトコンドリアを持つ鳥は、持続的に運動すると酸素消費はどんどん増えるが、活性酸素の放出量はほとんど増えない。これは哺乳類と比較するとわかりやすい。哺乳類は強度の高い運動をすると、酸素消費は増えるが、活性酸素の放出量はそれ以上に増える。この意味で、哺乳類ではミトコンドリアを活性酸素の発生源と理解することが可能だ。
しかし鳥は異なる。むしろミトコンドリアは活性酸素を除去する装置である。だから細胞内に大量のミトコンドリアを抱えていても、ほとんど活性酸素が増えることはない。
まとめると、哺乳類ではミトコンドリアは活性酸素の放出源として老化を促進する働きがあると考えることができるが、鳥ではミトコンドリアは活性酸素を除去する装置として働くために、老化を抑制する働きがある。
スーパーミトコンドリアは三畳紀の「ゲームチェンジャー」だった。獣脚類はスーパーミトコンドリアですべての細胞を満たし、卓越した運動能力を手に入れた。酸素濃度が高くなれば、彼らの運動能力はさらに増強され、ジュラ紀に空へ飛び立つチャンスを得た。
獣脚類の子孫である鳥は、卓越した飛行能力を獲得し、白亜紀には翼竜を生態系の端に追いやってしまった。
第2次世界大戦の後期(1943年)、アメリカ空軍は戦闘機P51マスタングを開発した。これはプロペラ機の「ゲームチェンジャー」である。なにせ、1500馬力の出力で、時速750kmのスピードがあるのだ。1000馬力の出力で時速500kmのゼロ戦では勝てるはずがない。
鳥のスーパーミトコンドリアは、P51マスタングの1500馬力のエンジンみたいなものだ。これに対して哺乳類は、1000馬力のエンジンしかないゼロ戦のようなものだ。低酸素の条件では、哺乳類がどのような工夫をしようが、獣脚類との生存競争に勝てるはずがない――。
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以上、佐藤拓己氏の新刊『恐竜はすごい、鳥はもっとすごい! 低酸素が実現させた驚異の運動能力』(光文社新書)をもとに再構成しました。恐竜や鳥の身体構造や進化の歴史、能力の秘密に、独自の説を交えて迫ります。
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