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知的障害者のための大規模施設「コロニー」でいま起きていること…抱える問題点「4つのK」とは?
心身障害者などの終生保護を目的として、「植民地」「居留地」などの意味もある「コロニー」が、欧米諸国を中心に作られたのは、19世紀の後半に入ってからである。
コロニーの多くは人里離れた僻地に建設され、広大な敷地内には集団住居、病院、学校、商店、作業所、農場などが設けられた。この「小さな村」とも言うべき総合的施設には、一カ所につき数百人、ときには1000人を超える心身障害者が暮らし、その多くがそこで生涯を終えた。
「日本障害者協議会」代表の藤井克徳さんは、「いまでもそうかもしれませんが」と前置きして、コロニー誕生の背景をこう説明する。
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「当時にあって知的に障害のある人たちは、社会で暮らしていると、どうしても差別や偏見に晒されたり、虐待を受けやすかったりした。
そうした生きづらさがあった上、親亡き後は一人で生きていく術(すべ)もない。それなら、知的障害者が生涯にわたって保護され、安心して暮らせるようなユートピアを作ろうということで、コロニー建設が始められたのです。
とはいえ、当初こそ彼らのための理想郷建設という理念に燃えていたものの、いざ蓋を開けてみると、様々な人権的な問題が浮き彫りにされてきた。
それは、のちにコロニーを作った日本も同じで、私自身、こうした大規模入所施設の問題を『4つのK』と呼んでいます。『個人がない』『期限がない』『規模が大きい』『郊外にある』の4つがそれです。
つまり、大勢の入所者が辺鄙な場所で自由のない一律の生活を強いられ、社会とも隔絶してしまったわけです。個々の施設を見ると、ヒューマニックな取り組みをしているところも、たしかにありました。しかし、私は、この『4つのK』そのものが人権侵害に当たると考えています」
■コロニーの建設ラッシュ
知的障害者のための法律が、1960年(昭和35年)3月に公布された「精神薄弱者福祉法」だった。
同法は、知的障害者を「精神薄弱者援護施設」に入所させ、精神薄弱者福祉司または社会福祉主事の指導のもとに置くことによって、「更生援助」と「保護」を目的としたものである。1967年(昭和42年)の精神薄弱者福祉法の改正では、授産施設の新設などの条項もそこに盛り込まれた。
「それでも、最重度の知的障害者は援護施設になかなか入所することができませんでした。福祉に対する予算が少ない上に、相変わらず職員配置が不足していたからです。
つまり、精神薄弱者福祉法ができても、中軽度の知的障害者が主な入所の対象になっていて、重度の人は入所できなかったわけですね。
最重度の子供を持つ親にとっては、自宅で世話をすること自体、それこそ大変だったと思います。しかも、わが子が成長するにつれて、親も高齢になっていく。そこから重度の知的障害者のための施設を作ってほしいという親の要望が相次ぎ、それがコロニーの建設へと結びついていったのです」(障害者施策に詳しい日本社会事業大学教授の曽根直樹さん)
こうした親たちの要望を受けて、1965年(昭和40年)、厚生省に「コロニー懇談会」が設けられた。そこで、成人の重度知的障害者を終生にわたって保護することを目的としたコロニーを、国と各自治体が各ブロックに設置することなどが決められた。
その結果、1968年(昭和43年)に愛知県の春日井市に「春日井コロニー」、1970年(昭和45年)に大阪府富田林市に「大阪府立金剛コロニー」、その翌1971年(昭和46年)には国立コロニーである「心身障害者福祉協会国立コロニー のぞみの園」が、221ヘクタールにも及ぶ群馬県高崎市の観音山の国有地に開設された。
■コロニーの内情
現在、東大阪市で生活介護事業所「クリエイティブハウス パンジー」を運営する社会福祉法人・創思苑の理事長を務める林淑美さんは、かつて香川県のコロニーで支援員として働いた経歴を持つ。当時のコロニーの内情とはいったいどのようなものだったのか。
「虐待のようなものはありませんでしたが」と前置きして、林さんが自身のコロニー職員時代をふり返る。
「裏には山、表には海が広がる辺鄙なところにありました。子供と大人合わせて100名ほどが入所していましたが、重度の心身障害児・者が多く、外勤にしろ内作業にしろ、働ける人はわずかしかいませんでした。
いまでも思い出すのは、わが子を施設に入れた親が、泣きながら帰る姿でした。見送る子供も遠ざかる親の後ろ姿を見て泣いている。そういう親たちは子供が入所してしばらくは、定期的に会いに来るんです。場所が遠いということもあるんでしょうが、それが、子供の成長とともに足がしだいに遠のいていく。
たまに洋服とか持って会いに来ても、わが子の成長がわからないから、サイズに合わない服を持ってきたりするんですね。わが子と接することのできない生活を長く続けていくうちに、わが子のことも少しずつ忘れていくといった印象を抱きました。
子供たちはそれでも施設内で生きていかなければならない。世間との繋がりはほとんどないし、親が高齢化したり、亡くなったりしたら、それこそ面会に来る人もいなくなるんです。矛盾を感じましたね。これが、入所者にとって幸せなことなのか、と」
■「入所施設を増やしてほしい」という親の声
では、障害児・者を持つ親たちは、入所施設の存在をどう見ているのか。「全国手をつなぐ育成会連合会」会長の佐々木桃子さんが、こんなエピソードを打ち明ける。
「育成会のお母さんたちが入所施設のことを知りたがっていたので、東北地方の入所施設に入った子のお母さんに、入所施設について話してほしいと依頼したんです。すると、手紙が来て、こんなことが書かれていました。
東北の冬は寒いので外に出られない。それ以外の季節でも支援員の数が足りているとき以外は、外に出してもらえない。入所施設はおよそ地域生活とかけ離れている。私は息子をそこに入れたことに納得していないので、その話はできないし、お母さんたちにも勧められない……。そんな内容でした。つまり、喜んで息子さんをその施設に入れたわけじゃなかったんです。
でも、事はそれほど単純じゃありません。国は新規に入所施設を作らないと言っていますが、そのことで困っている親御さんがたくさんいることも事実なんです。親もだんだん高齢になって、いずれはわが子の面倒をみることができなくなる。わが子の暮らしの場を求めていますが、それがなかなか見つからない。
なかでも重度の障害のある人は、グループホームでもなかなか受け入れてくれません。そういうことから、入所施設を増やしてほしいという声は、いまでもけっこうあるんです。東京都でも入所待機者が1000人ぐらいいますし、その数字がここ何年かずっと続いている。親も困ってるんですね」
実は、この親の苦悩を物語るような数字が残っている。2017年7月、毎日新聞が津久井やまゆり園と同規模の全国84施設から得た、地域移行に関するアンケート調査の結果を公表した。
それによると、大規模入所施設で暮らす知的障害者の4割以上が、25年以上の長期にわたって入所していることがわかった。グループホームなどへの地域移行が進まない理由として、同新聞社では以下のような複数回答を得ている。
「家族の反対」(81パーセント)、「入所者の高齢化」(79パーセント)、「障害程度の重さ」(75パーセント)、「本人の意思」(38パーセント)。
前出の曽根さんは、こう解説している。
「入所期間が長い人は、親が高齢化し、すでに亡くなっていることもあります。そういう人のなかには、このまま慣れた施設で暮らしたいと考えている人もいるのではないかと思います。地域に移行したい人のための受け皿が少ないと言われますが、それだけではないのでしょう。家族の意向や本人の意思によって、地域移行が進まないということも、背景の一つとしてあると思いますよ。
また、経済的な理由も考えられます。入所施設は家賃の負担はありませんが、グループホームでは家賃や食費、光熱費などは入居者の自己負担です。地域に出たとしても、収入が年金だけだと、生活が厳しいということもあると思います」
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以上、織田淳太郎氏の新刊『知的障害者施設 潜入記』(光文社新書)をもとに再構成しました。入所者に対する厳罰主義、虐待、職員による「水増し請求」――驚きの実態を生々しく描いたルポルタージュ。
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