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商店街に賑わいを戻すには…「外食アワード」受賞社長の転機
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2018.06.14 09:39 最終更新日:2018.06.14 09:39
上野の山の賑わいを、上野二丁目仲町通り商店街へ導くにはどうすればいいのか? 前川弘美さん(55)の頭には常に町おこしがあった。かつて花街だったその界隈は風俗店も多く、一般の人からは敬遠されがちだった。
「長岡商事の創業者である父がこの町に喫茶店を開いたのは1963年のことです。事業を広げ、飲食店や居酒屋を数多く作りました。とても怖い、偉大なるワンマン経営者でした。
3年前に会長を務めていた父が亡くなりました。一周忌を終えた翌日に会長を社長だった兄が継ぎ、私が社長に就任しました。父同様、この町で生きていくことになりました」
といっても、たんなる二世社長ではない。社長に就くまでには長い物語がある。大学で服飾を学んだ後、自立するために、アパレル企業に就職。やがてチーフデザイナーとして月に100型以上の商品を作るようになった。
しかしその生活が7年も続くと、「毎日ファッション誌ばかり見る生活でいいのか?『結婚しろ』と父の怒りが頂点に達したことや、体を壊したこともあり、退職しました」。
リフレッシュ後、兄に誘われて参加したシンポジウム「水の星・地球会議」で、ドキュメンタリー監督の龍村仁や、医学書を扱う出版社の編集者と知り合った。それが縁でその出版社に入社した。
また、龍村から紹介された創作舞踊家・西川千麗(1945〜2012)の仕事を手伝った。
「彼女の生き方にすごく共感しました。踊り、演出、音楽、すべてを一人で作り、プロモーションまでする。東京での一番弟子のような形でそばにいて、創造力と経営能力を学んだと、強く感じています」
32歳で結婚、出版社は辞めた。2人の子をもうけ、幸せな家庭生活を送っていた。だが、兄が勝負をかけた新店は失敗に終わる。兄のために何かを……。上野の山と商店街をつなぐ新聞を作った。
「父は二丁目仲町通り商店会の会長でしたが、父に頼らずに、広告取りから執筆依頼、記事、レイアウトまで、一人で作りました」
新聞は上野観光連盟の協力、後援を得て、上野の各所に置かれた。
社長だった兄が静養で休職した2006年、夫の理解もあり、長岡商事に入社。会長だった父と社員の橋渡し役となり、経営改革に着手。2009年、転機が訪れる。
兄が失敗した店を取り壊し、新しく建てたビルの一階で繁盛店を創るよう命じられたのだ。「女性と町の健全化」を目標に、手に持って食べるラムチョップとワイン、パエリアの「下町バル ながおか屋」を創った。
ところが目玉のラムは売れない。売り上げが伸びず、身を引いた。しかし、スタッフの要請もあり、父と兄に土下座して謝り、1年間で繁盛店にする約束で復職した。
「メニューは変えずにマーケティングをやり直し、調理スタッフを外部から招きました。店を知ってもらうために『下町バル通信』を発行し、サービスイベントもしました。
ラムチョップ1本サービスや、樽から自分で注ぐワインの飲み放題体験とか。スタッフが力を合わせて頑張った結果、最初の年、年間4000本だったラムチョップの販売本数が、今は25万本になりました」
2011年、前川さんは町おこしを仕掛けた。「食べないと飲まナイト」である。回数券を買えば仲町通り界隈の参加店をはしごして、サービスを受けられるというものだ。地図つきで各店を紹介するチラシも作った。
初回にもかかわらず1500人を集客し、イベントは大成功。それが外食産業記者会が選考する「外食アワード2011」を受賞した。2018年はハロウィンの日に開催する予定だ。
「父からラムに関して、『お前は人のやらないことをやった。素晴らしい。わしも人のやらないことをやってきた。だからこの道を進め』と言われたのがすごく嬉しかった」
暗かった上野二丁目仲町通り商店街に、私財を投じて街灯をつけたのは父・長岡清吉である。町を思う情熱は娘に受け継がれた。街灯は町の賑わいを見つめている。
(週刊FLASH 2018年6月26日号)