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絶対に首を切らなかった日本の「名経営者」(4)出光佐三

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2018.10.11 11:00 最終更新日:2018.10.11 11:00

絶対に首を切らなかった日本の「名経営者」(4)出光佐三

 

 アパレル大手の三陽商会が3度目のリストラをしたり、大正製薬が創業以来初めてリストラしたりと、相も変わらず、リストラのニュースが流れ続ける。

 

 

 かつて、日本企業には「絶対に首を切らない」と宣言した数多くの経営者たちがいた。そんな名経営者たちを紹介していこう。

 

 現在の貨幣価値に直して500億円もの負債を抱え、さらに事実上の事業停止状態にもかかわらず、約1000人いた従業員の雇用を守った経営者がいた。石油元売り大手・出光興産の創業者・出光佐三である。

 

 経済ジャーナリストが語る。

 

「昭和20年、出光興産は敗戦によって海外資産を失い、事業の石油販売もGHQが石油を戦略物資に指定していたため、販売できなくなっていました。

 

 にもかかわらず、出光佐三は役員たちの反対を押し切って、全員雇用を表明。復員して来る海外社員約800名を会社に迎えたのです。

 

 しかも終戦の2日後に、『長い間苦楽をともにした社員たちを見殺しにできるか。今する仕事はないが、これまでもピンチをみんなで乗り切ってきたではないか』として、反対する役員たちを説得して回ったそうですから、雇用維持にはまったく迷いがなかったようです」

 

 さらに驚くべきは、雇用維持のための、具体的な方策があったわけではなかったということだ。

 

「石油販売はできないわけですから、さまざまな事業に手を出しています。最初に着手したのが農地開発事業です。鳥取県の大山山麓に広がる99万平方メートルの荒地を開墾して農場経営を始めました。

 

 その後、茨城県石岡で醤油や酢の醸造所、三重県熊野で定置網を使った漁業、東京の品川で印刷事業を始めています」(前出のジャーナリスト)

 

 しかし、やはり素人商売だったからか、そのほとんどは軌道に乗らず、次々と失敗していった。

 

「そのなかで唯一成功した事業がありました。ラジオの修理販売です。テレビがなかった当時、ラジオは国民生活の必需品でした。戦後、放送局の復旧は完了したにもかかわらず、国内に約800万台あったラジオのうち、200万台が戦災などで故障していました。

 

 そこに目を付けた出光は、銀行から現在の貨幣価値で60億円もの融資を取り付け、さらに旧海軍にいた技術者を集めるなどして、全国の主要都市に50店舗を出店させたのです」(同)

 

 国内には1000万人の失業者がいた時代のことである。結果的に、社員の雇用を守ろうと手を出したこの事業が出光興産の発展の基礎となる。

 

 昭和26年、戦前から続いていた石油の消費統制が解禁されると、このラジオ店舗網が石油給油所に変わり、モータリゼーションの到来とともに出光石油の石油販売網に生まれ変わっていったのだ。

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