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リクルート出身の営業マン、借金処理の恩人の縁で不動産業に
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.02.07 11:00 最終更新日:2019.02.07 11:00
砂山、砂川、砂田など砂が上につく名字は、それほど珍しいわけではない。しかし、「砂野」姓はあまり多くない。砂野元英さんが語る。
「祖父は愛媛県の出身で、愛媛にお墓参りに行ったときにお墓を見て、初めて砂野という名字の家がほかにもあることを知りました。
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私は砂野家の15代目。砂野は愛媛にある名字だと聞いています。祖父は愛媛から大阪に出てお好み焼き屋を始め、父は大阪から上京して会社に勤め、埼玉県の大宮に家を持ちました。
私は大宮の生まれ。中学、高校と野球をしていましたが、リトルリーグ出身者などに勝てず、あきらめました。体育会系で勉強はダメ。
受験は無理だと思ったのと、世の中をもう少し見てみたいという気持ちがあって、高校卒業後はビジネス専門学校に行きました」
専門学校の生徒だったある日、リクルートの募集を見た。「いろいろな経営者に会える」というコピーに惹かれた。
「絶対に入りたかったが、筆記には自信がないので、面接に懸けるしかない。面接用に背広を買い、『リクルートに入るためにアルバイトをして背広を買いました。絶対入るつもりでいます』と熱く語ると、面接担当の部長が『なんだ、こいつは』と思ったようなのですね」
何十人という受験者のなかで、契約社員として採用されたのはわずか2人で、そのうちの1人が砂野さんだった。
「入社したら、まわりはみな錚々たる大学の出身者。萎縮してしまって、1年ぐらいくすぶっていました。新たに着任した上司から、『死んだ鯖のような目をしているな』と言われ、?咤激励されましたが、成績は上がらない。
すると上司から、営業の先輩に同行するように命じられた。先輩には、『いい客はなのに相手の注文を待つだけで、営業をしていない』と指摘された。
たしかに先輩は私の客からどんどん仕事を取っていく。イロハを知らなかったので、先輩の仕事ぶりを見て、営業のやり方を学びました」
その後、成績は急上昇。トップになることもあり、天狗になった時期もあった。
「3年ぐらいリクルートにいたのですが、週刊誌の求人募集の営業なので、毎週ドタバタ」
落ち着いて仕事がしたくなり、会社を辞め、宅配便の仕事に2年弱従事した。営業から離れてみると、上司から言われたことがいろいろとわかるようになった。
営業への思いが強くなり、宅配便の会社を辞めてUSENに入り、チューナーを売る仕事をした。ただ、熱くなれるものはなく、転職を考えていた矢先に、父親が急に倒れて亡くなった。
「同居していなかったので、家のことがまったくわからない。ただ長男なので、処理しなければいけなかった。父は脱サラをして私が中学2年のときから、大宮でお好み焼き屋を開いていました。晩年はうまくいっていなかったのか、負債がけっこうあり、タチの悪い借金取りがやってくる。
偶然、上場企業の子会社の、不動産会社の所長さんを紹介してもらった。その方が、私が家を売らずにローンを組む形で、借金と銀行関係の処理をしてくださった」
ここが転機となる。所長の名は、井原隆氏。
「転職先の保険会社に入社の手続きに行くその朝、突然所長から『ちょっと顔を出しなさい』と電話が入った。27歳のときで、人生が変わりました」
それは、亡き父が繫いだ縁のように思えた。井原氏のもとで不動産の仕事を学び、営業成績も上げた。しかし4年後、井原氏も父親と同じ50代でこの世を去る。その後は、数社の不動産関係企業で働いた。
「『井原商店』を継いでいるという自負があり、会社で稟議書を回すときも、まだ『井原商店』で働いている気持ちでした」
不動産会社を立ち上げたのは約4年前だ。管理職になると、客との関わりが希薄になる。それが独立した理由だ。そしてもうひとつ。
「父から『人との縁を大事にして生きていきなさい』と言われた。井原所長に恩返しをしたい。私がしていただいたことを、今度は若い人にしてあげたい……」
2019年に入社する若者を、育てる予定だ。
(週刊FLASH 2019年2月12日号)