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カルロス・ゴーンが日産を復活させた7つの方策まとめライフ・マネー 2019.02.28

 

カルロス・ゴーンが日産を復活させた7つの方策まとめ

 

 日産は、我が国第2の自動車メーカーであり、1970年代初期には市場シェア33%を握っていた。トヨタに肉薄していたが、官僚主義的な企業風土と社内派閥の対立により経営は混乱し、次第に市場シェアを失っていた。

 

 
 バブル崩壊後の不況で日産の売上は1992年をピークに下がり始め、収益は悪化した。日産は、

 

・1992年、560億円の損失
・1993年、870億円の損失
・1994年、1660億円の損失
・1995年、880億円の損失

 

 を計上することになった。1996年には、一旦770億円の利益を計上したが、1997年から140億円、1998年には280億円の損失を計上し、再建の手がかりが見えない状況に陥っていた。

 

 メインバンクの富士、興銀の2行も、不良債権問題のため日産を支援する余裕はなく、海外の提携先との交渉を始めた。フォード、ダイムラー・クライスラーとの交渉が不調に終わった後、ルノーが提携相手に浮上し合意に至ったのであった。

 

 1999年3月、ルノーのCEOルイ・シュバイツァーは日産の再建を任せる人物として、当時45歳の上級副社長カルロス・ゴーンに白羽の矢を立てた。

 

 ゴーンは着任すると、あらゆる階層の従業員100人と対話を行った。取締役は以前の43名から9名へと削減され、そのうち3名はルノーから派遣された者となった。

 

 ゴーンは、事業の発展、購買、製造・物流、研究開発等の課題を検討するため、9つのクロスファンクショナル・チーム(CFT、部門をまたがるチームという意味)を組成した。メンバーは、異なる専門分野を持ち、十分な実績を兼ね備えたミドルマネジャーが選ばれた。

 

 CFTは3か月の検討を経て、400を超える提言を行った。これをベースとして出来上がったのが、日産リバイバル・プラン(NRP)である。ゴーンは、10月18日、東京モーターショー会期の前日にNRPを発表した。

 

 その内容は、2002年までに1兆円のコスト削減を行うとともに、負債を50%削減するという、きわめて大胆なものだった。ゴーンは、さらに2000年までに黒字を回復すること、2002年までに売上高営業利益率を4.5%にすることも約束した。

 

 ゴーンは、NRPをすぐさま実行に移す。ここが旧来の日産の経営陣と決定的に違うところだった。NRPの中で世間を最も驚かせたのが、購買コストの20%削減、サプライヤー数の50%削減であった。

 

 ゴーンは、購買コストの中で大きな比率を占める鉄鋼から進めるように指示を出した。これまで同じ芙蓉グループに属するということから、日産の鉄鋼のメインサプライヤーとなっていた日本鋼管(鉄鋼業界3位)は、購買量を大幅に削減されることになり、経営の屋台骨が揺らぐことになった。ついには、業界2位の川崎製鉄との合併を余儀なくされる。

 

 それ以外の分野の1100社以上のサプライヤーも、1社ごとに厳格な査定を受けることになった。系列企業に割り当てられていた発注も競争入札で調達されるようになった。こうして系列も解体されていくことになる。1999年6月時点で日産の系列企業は、67社あったが、それを25社まで減らすこととなった。

 

 メインバンクやサプライヤーとの株式持ち合いは1400社間で行われていたが、これも解消することとなった。2002年までに売却益として3000億円を計上した。ゴーンは、保有不動産も売却し2000億円の資金を得た。

 

 次に行ったのが、工場の閉鎖である。NRPによれば、3年間で国内の生産能力の30%、コスト300億円を削減することになっており、そのためには4000名以上の従業員を抱える5つの工場を閉鎖する必要があった。

 

 数年前の工場閉鎖で、日産では労組との大トラブルとなったことから、ゴーンは労働組合の幹部と面談し、閉鎖した工場の仕事は存続させる他の工場で引き継ぐ見込みであること、異動を希望する社員には仕事を保証するという条件で支援を要請した。

 

 結果的に、2001年3月までに3工場を閉鎖し、それから1年後に2工場を閉鎖することができ、異動を希望しなかった社員の18%は会社を去っていった。

 

 第3に行ったのが、販売組織の再編だ。全世界の販売組織が士気の低下に直面しており、その傾向は特に日本とアメリカで顕著であった。アメリカでは、日産車を売るためには、トヨタやホンダと比べて1000ドルの値引きが必要であると言われ、ディーラーの70%は赤字であったという。

 

 ゴーンは、国内では小規模な店舗を大規模店舗に統合し、そこに大規模な改装投資を行った。また、地域単位でバックオフィスを統合し、コスト削減を図った。ゴーンは、各ディーラーに年間のコミットメントとターゲットを与え、ディーラーの業績を事細かに監視するようにした。

 

 第4の施策は、グローバル組織の新設だった。6名のプログラム・ディレクターを任命し、各ディレクターはサイズや性質によって分類されたプラットフォームの一つ又は複数を担当した。彼らは自分の管理する車種について明確な利益責任を持たされた。

 

 さらに、ゴーンはグローバル事業展開を強化するため、グローバル日産という統括組織を作り、あらゆる地域、ファンクションから適切な情報やアイデアを収集できる体制を作った。

 

 第5に、商品開発力の強化を図り、2004年までに28の新モデルを市場投入すると発表した。グローバル化とともに、新製品開発にも、アメリカやヨーロッパからのインプットを重視するように変更した。また、国際的に有名なカーデザイナーの中村史郎をデザイン本部長として迎え、日産が特に劣っていたデザイン力の強化を図った。

 

 第6に、ゴーンは人事制度の改革を行った。年功序列と終身雇用を廃し、成果主義を導入した。コミットメントという概念を導入し、報酬と昇進はこのコミットメントの成果に連動させることにした。

 

 また、ターゲット目標を設定し、これを達成したマネジャーには年収の3分の1にも及ぶ報奨金を出すようにした。上位数百人のマネジャーにはストック・オプションも導入した。こうして年齢が若くても、能力と実績があれば、重要なポストへと昇進できるようにした。実際に任命された常務のうち何名かは40代だった。

 

 最後に、ルノーとの提携強化を図った。両社の間でグローバル・アライアンス・コミッティを創設し、その下に11のクロスカンパニー・チームを作った。製品企画、パワートレイン、車両エンジニアリング、購買、生産、ロジスティックスといった分野でシナジー効果を追求した。

 

 この成果は目覚ましく、2002年夏までに日産とルノーは部品の30%を共通のサプライヤーから調達するようになった。共同購買をさらに進めるために、両社は折半出資の購買組織を設立した。

 

 こうして2000年には6840億円の損失を計上していた日産が、翌2001年には3310億円の利益を出し、2002年には3720億円の利益を出すところまで立ち直った。日産は、ルノーとカルロス・ゴーンの力を借りて、瀕死の状態から瞬く間に再生したのである。

 

 

 以上、植田統氏の近刊『日米ビジネス30年史』(光文社)をもとに再構成しました。 この30年で日米のビジネスは完全に逆転してしまいました。その原因を明らかにします。

 

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