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『まんぷく』では描かれない「安藤百福」もうひとつの逮捕

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.03.29 11:00 最終更新日:2019.03.29 11:00

『まんぷく』では描かれない「安藤百福」もうひとつの逮捕

 

 3月30日に最終回を迎えるNHK連続テレビ小説『まんぷく』。10週連続で視聴率20%超と、好調をキープしたままフィナーレに突入する。

 

 長谷川博己演じる「まんぷくラーメン」を発明した夫・萬平と安藤サクラ演じる主人公の福子のモデルが、日清食品の創業者・安藤百福氏(1910~2007年)と妻・仁子さんであるのは、周知の事実。そして2018年度、日清食品の「チキンラーメン」は史上最高の売り上げを達成している。

 

 

 ドラマの前半、萬平は3度逮捕される。脱税容疑による3度めの逮捕は、劇中では不当逮捕だったと判明する。

 

「日本経済新聞」で連載された「私の履歴書」をもとにした自伝『魔法のラーメン発明物語』(日本経済新聞出版社)などによると、実際に1948年12月、安藤氏は脱税容疑でGHQに逮捕された。巣鴨プリズンに収監されたが、1950年12月に無罪釈放になったという。

 

 翌1951年から、安藤氏は信用組合の理事長を務めていたが、1957年が明けたころ、信用組合が破綻し、無一文になった。

 

 だがそこから奮起し、自宅の裏庭に「研究小屋」を建て、丸一年間、一日の休みもなく研究を続け、油で揚げる「瞬間油熱乾燥法」にたどりついた。そして、1958年の8月25日、「チキンラーメン」を発売する−−これが安藤氏の主張する「発明物語」だ。

 

 横浜市と大阪府池田市の「カップヌードルミュージアム」には、研究小屋が再現されている。朝ドラ『まんぷく』も、この自伝に基づきストーリーが展開されている。

 

 だが、時代をさかのぼると、この発明物語とは少々食い違う資料が続出する。まず、雑誌「財界」1957年11月号に掲載された「取りつけ騒ぎの大阪華銀」という記事を見てみよう。

 

《九月二十七日の夕刻、大阪駅前にある信用組合「大阪華銀」の前に百人近くが押しかけ、預金を返せと騒ぎたてた》

 

《いきりたつ預金者に対して理事長のG(編集部注・原文は実名)百福は「代理交換を委託している三和銀行難波支店と話合いがつくはずだから−−」と弁解したが、預金者はこれを承知せず、(中略)再び騒ぎたてる預金者の眼をくぐって理事長は姿を消してしまった》

 

 安藤氏が台湾の生まれであることは、自伝にも書かれている。上の記事にある「G百福」が、当時の安藤氏の名前であり、「大阪華銀」が、安藤氏が理事長を務めていた信用組合だ。

 

 この記事によると、信用組合の取付け騒ぎが起きたのは、1957年9月末のこと。自伝では「研究小屋にこもって研究していた」はずの時期に、どうやら安藤氏は信用組合に押しかけた「いきりたつ預金者」に弁解をしていたようなのだ。

 

 翌1958年1月9日付の『朝日新聞』には、こんな見出しが躍っている。大阪版夕刊3面の記事だ。

 

《大阪華銀 G前理事長取調べ 六千万円を横領 香港方面に蓄積か》

 

《捜査当局の調べによるとG前理事長は昨年九月に信組預金など公金約四百万円を横領したのをはじめ理事長に就任した二十六年(=1951年・編集部注・以下同)ごろから昨年秋までの間に約六千万円の公金を横領、香港方面に蓄積するとともに、小豆相場に使い込んだ疑い。当局では同氏の蓄積額は約四億円にものぼるとみている》

 

 自伝では1957年初めに破綻したはずの信用組合が、『朝日新聞』の記事を見ると、1958年1月にも存続している。そしてこの記事でも、取付け騒ぎが起きたのは1957年9月のこととされている。1957年12月に、G前理事長こと安藤氏が、代表理事になったという記述もある。

 

 この事件で、安藤氏はまたしても、逮捕されていた可能性が高い。知人である井上炎亭氏という人物が、雑誌『財界展望』1983年5月号でインタビューに答え、昭和33年(=1958年)の夏に大阪・難波で偶然、安藤氏と会ったと話している。

 

《彼は暫く刑務所に入ってまして、消息が途絶えていたのです》と井上氏は話し、容疑は大阪華銀の理事長時代の背任横領だと明かしているのだ。

 

 じつは1983年刊の安藤氏の自伝『奇想天外の発想』(講談社)では、安藤氏は、信用組合の取付け騒ぎにからみ、こう認めている。

 

《ここで私は、背任罪に問われた》

 

《一審の執行猶予つき有罪判決に服さざるをえなかった》

 

 ただ、実刑ではないので、井上氏の言う「刑務所」は拘置所の勘違いと推測される。なお、『奇想天外の発想』には、取り付け騒ぎについて、「1956年のこと」と書かれている

 

 だがこの記述は、2002年刊の新しい自伝『魔法のラーメン~』からは消され、《私は理事長としてその社会的責任を問われた》とだけ書かれている。

 

 繰り返すが、1957年から1958年にかけての時期は、『魔法のラーメン~』によれば自宅裏に小屋を建て、一日の休みもなくチキンラーメンの開発に奮闘していたはずの時期だ。これらの資料と読み比べると、首をひねらざるを得ない。

 

 さらに台湾には、即席麺のルーツともいえる鶏糸麺という麺がある。また当時日本国内では、「チキンラーメン」に先行して、ほかの即席麺が発売されていた。

 

 結局、安藤氏が「即席ラーメンの製造方法」の特許を出願したのは1959年の1月のこと。なぜか出願者名は、義母である安藤須磨氏だった。はたして安藤氏の発明物語は、事実なのか。

 

 資料を明示したうえで、日清食品ホールディングス広報部に聞いた。

 

「弊社の創業者である安藤百福が、インスタントラーメンの発明者であることに間違いはありません。ご指摘の安藤百福の著作(編集部注・『奇想天外の発想』)の内容については、当社が把握している事実です。

 

 質問書に挙げられたその他の内容については、把握しておらず、当社がコメントする立場にないと考えております」

 

 安藤氏によって、即席麺が日本発の世界的な食文化になったことは、誰もが認める事実だ。その人生は『まんぷく』よりずっと波瀾万丈の物語だった。


(週刊FLASH 2019年4月9日号)

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