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友の本塁打が人生の転機…ジムトレーナーからガン患者のケアへ
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.06.06 11:00 最終更新日:2019.06.06 11:00
高校時代は、多くのプロ選手を輩出した九州の名門、熊本工業高校で甲子園を目指していた。1年生のとき、学校は夏の甲子園で松山商業高校との決勝戦に臨んだ。2対3とリードされた9回裏二死、絶体絶命の場面。熊本工業のバッターは、ベンチ入り唯一の1年生だった。
「彼が初球を思い切り引っ張って、左翼席へ起死回生のホームランを打った」と、同級生の活躍を話すのは、カイロプラクター、トレーナーの倉田祐作さん(39)だ。
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試合は延長戦の末、3対6で敗れた。しかし10回裏の攻防は、甲子園球史に残る松山商業の「奇跡のバックホーム」を生み、平成の名勝負のひとつとして語り継がれている。
倉田さんは高校卒業後、地元で厚生省(現・厚生労働省)の、医療事務関係の準公務員となった。
「医療事務の仕事をしながらも、スポーツに関わりたいという思いがあり、5年で退職。23歳のときに、カイロプラクティックとトレーナーの資格を取るために、上京しました。カイロの学校へ通い、トレーナーコースも並行して、2年間学びました。
卒業して接骨院に就職。すぐにフィットネスジムの現場をまかされましたが、未熟なので顧客がつくはずもありません。給料が歩合制だったので生活も苦しく、3カ月で辞めました」
仕事が自分に向いていないと考え、高校で学んでいた建築関係の職を探し、内定を得た。だが、入社1週間前のこと。夏の甲子園でホームランを打った同級生が入っていた日本通運が、社会人の日本一を決める都市対抗野球で、決勝まで勝ち進んだ。
「彼がその試合の観戦に誘ってくれ、またホームランを打った。その姿を見て、やはりスポーツの仕事に関わりたいと思い、内定を辞退。同級生のホームランが、初心に返って自分を奮い立たせる機会を与えてくれたんです」
倉田さんは、トレーナーの仕事を探した。そして、トレーナーのケビン山崎氏が主宰する「トータル・ワークアウト」がトレーナーを募集していることを知る。同氏はアメリカで学び、独自に確立したトレーニング法を日本に持ち込み、プロ野球やK-1の選手などを鍛えたことで知られる。
ジムの説明会には100名以上の応募者が集まった。三度にわたる面接の結果、選ばれた3人のうちのひとりが倉田さんだった。
「運がよかった。26歳で、人生の転機となりました」
トレーナーとして勤める間に、いくつもの資格を取った。
31歳のときに結婚。ところが新婚旅行で行ったスペインで、突然右目の一部の視野が失われていった。網膜剥離だった。原因は、20歳のころに、趣味で続けていた野球で、ボールが目に当たったことだった。
当時は、1年に2000時間以上をトレーナーの仕事に割いていた。倉田さんは、仕事をセーブせざるを得なくなった。
33歳のときに、ほかのジムに移籍した。そこで、人生に大きな影響を与える出会いがあった。担当していた女性客が、ガンを発症したのである。
「手術を受けるということでお別れしたのですが、その約3カ月後にジムにいらっしゃった。『乳ガンの手術を受けたが、その後遺症で体が動かないし、肩が上がりづらい。倉田さんなら運動のメニューを組んでいただけるのでは……』と。
抗ガン剤や放射線治療などの後遺症や、術後の体調を考えながら、プログラムを組みました。彼女の努力もあり、回復されました。それぞれのお客様の人生や体に寄り添うことが、トレーナーとして大切だと気づかされました」
2014年、運動を通してガン患者らを支援する一般社団法人「キャンサーフィットネス」が発足。設立者の広瀬真奈美代表理事が、倉田さんが指導した女性客だ。倉田さんは、同団体の設立時から、専任トレーナーとして、一人ひとりの状態に合わせた運動を指導し続けている。
倉田さんは5月に「ラク(楽しい)を足す」との意味の(株)RAKUTASを設立した。倉田式コンプリートダイエットを考案し、ダイエット法とともに良質な体づくり、食事を提案していくという。
運動を楽しみながら、QOL(生活の質)の向上を目指す。倉田さんの新たな活動は、まだ始まったばかりだ。
(週刊FLASH 2019年6月11日号)