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名経営者は「焼け跡」で何をしたのか/トヨタ
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2019.08.17 06:00 最終更新日:2019.08.17 06:00
敗戦のショックも覚めやらぬ1945年8月17日。トヨタは工場を再開し、トラックの生産を開始した。当時、社長だった豊田喜一郎(当時51)は、このとき同時に1000ccの小型乗用車の開発を指示している。
「誰もが自由に乗れる国産大衆車の開発」
それが、喜一郎の生涯を懸けた夢だった。だが、戦時中は軍用トラックの生産しか許されず、戦後もGHQは乗用車の開発を認めなかった。細々とトラックを生産するしかなかった。
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「喜一郎の長男で後に社長に就任する豊田章一郎は、戦後の数年間を親戚が経営する北海道・稚内の水産加工会社で過ごしています。かまぼこやちくわを作る機械の設計や製造をしていたんです」(経営評論家)
苦境のなかで1947年、排気量995cc、27馬力、4人乗りの試作車が完成する。「トヨペット」と名付けられた。
だが、喜一郎の夢が実現する前に大きな試練に晒される。1949年、経営が急速に悪化し、倒産の危機に直面したのだ。銀行団による協調融資の条件が「従業員の解雇」だった。
そしてついに全従業員の約2割にあたる1600人の解雇を組合に通告する。大家族主義をうたうトヨタにとって初めてのリストラだった。喜一郎をはじめとする経営陣の辞任でようやく争議は終結した。
倒産の危機を救ったのが、1950年に勃発した朝鮮戦争による特需だった。米軍からの大量の軍用トラックの受注で業績は急回復。1952年2月、喜一郎の社長復帰が内定する。ところが、その1カ月後、喜一郎は57歳の若さで脳溢血で死去する。
本格的な国産乗用車「トヨペットクラウン」が完成するのは3年後の1955年1月。喜一郎は、この車を見ることなく世を去ったが、その後、日本は大衆乗用車の黄金時代を迎えることになる。