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わずか5年で完成した「首都高」工事の迅速さは徳川家康のおかげ説/6月17日の話
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2021.06.17 06:00 最終更新日:2022.12.31 12:32
1959年6月17日、首都高速道路公団が発足し、首都高の建設が本格的に始まった。
高度経済成長まっただなかの東京では、交通渋滞という深刻な課題が持ち上がっていた。1950年、東京で約6万5000台だった自動車数は、1960年には約60万台に増加し、あちこちに車があふれるような状況になっていた。
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交通関係に詳しいフリーライターの内田宗治さんに、首都高建設に至ったいきさつを聞いた。
「当時、町全体で道路渋滞が起きるような事態は、世界的にみてもほとんどありませんでした。欧米は日本よりも自動車文化が進んでいましたが、向こうは道路が広く、渋滞になることはあまりなかったんです。
一方日本では、自動車の需要が一気に増え、昭和40年(1965年)には都心の交通量が限界に達し、マヒ状態になるという調査結果が発表されました。これは『昭和40年問題』と呼ばれ、渋滞によって都市がどうなってしまうのかという、いまでは想像しにくい不安感が世間にあふれていたのです」
首都高速道路を造る計画は、財源不足などさまざまな要因で何度か頓挫したが、1956年の「首都圏整備法」から本格的に動き出す。1959年、第18回オリンピックの開催地が東京に決定したことも追い風となり、予算は倍増、急ピッチで工事が進められた。
現在の首都高は急カーブや合流が多く、初心者ドライバー泣かせには定評がある。東京の顔である日本橋の上に黒々と通る道路や、複雑怪奇と悪名高い箱崎ジャンクションなど数多くの欠陥が指摘されているが、いまのような形になったことには理由があるという。
「首都高の計画は、もともと『昭和40年問題』に間に合わせるため、工期の短縮が求められました。ルート選定の際は、用地買収を少なくするため《河川または運河(の上)を使用するものとし、やむを得ざる場合には広幅員の道路上に設置する》との条件がついたのです。
その結果、首都高は基本的に河川やお堀の上に通さざるを得ず、必然的にカーブの多いコースとなりました。
環状線を例にとると、日本橋川、築地川、古川、内濠など、3分の2は河川やお堀の上を通っています。日本橋の上を通る道路は、当初、空堀にして川の底に建設する予定でしたが、河川管理者の許可が下りず、いまの形になりました。
さらに面白いのは、首都高を構成するコースの大半は、徳川幕府が造ったお堀の上を通っていることです。隅田川や神田川(飯田橋以西)、古川以外はすべて江戸時代前期に整備された水路上です。
極論すると、5年という短期間で首都高を完成することができたのは、徳川家康のおかげとも言えるのではないでしょうか」(内田さん)
徳川家の遺産をフル活用した結果、1962年には京橋~芝浦のルートが開通し、これ以降、徐々に他路線も開通していく。羽田空港から都心へのルートは1964年8月に完成し、10月開催の東京オリンピックまでになんとか体裁が整う形となった。
現在でも、首都高ではあちこちで工事がおこなわれている。日本橋上空の道路は2040年までに撤去されることが決まっており、地下化が進む。江戸時代の地形を反映した首都高も、時代に合わせて、今後ゆっくり姿を変えていくのかもしれない。
図版・『地形と歴史で読み解く 鉄道と街道の深い関係 東京周辺』(内田宗治著/実業之日本社)より