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キャラクタービジネスで大成功したディズニー、師匠はチャップリンだった

社会・政治 投稿日:2021.06.30 16:00FLASH編集部

キャラクタービジネスで大成功したディズニー、師匠はチャップリンだった

チャップリンとウォルト・ディズニー(1939年)

 

 チャーリー・チャップリンは、ウォルト・ディズニーに長編アニメを作る時の心得を授けた。それは、人々が共感できる主人公、ストーリーとテーマの重要性であった。

 

「チャーリーは私に、最上のコメディにおいて、人は主人公に同情しなければならないということを教えてくれた。主人公の行ないに笑う前に、主人公のために涙を流さなくてはいけない、と」

 

 

 大変な借金を抱えながら、1937年、ようやく長編アニメ『白雪姫』が完成するも、ディズニーには長編映画を公開するためのノウハウがなかった。

 

 頼みの綱の配給会社UAは『白雪姫』の公開をしないと決定した。チャップリン以外の取締役が反対したのだ。新しい配給会社RKOとの交渉の中で、ディズニー社は不利な条件を飲まされてしまう危険性があった。

 

 その時助けてくれたのもチャップリンだった。彼はディズニーを励まし、「君の映画は長い間生き続ける。僕のアドヴァイスは全作品の権利を自分のものにすることだ。もし所有していない権利があれば買い戻すのだ」と言って、あくまで自分の権利を保持し続けるように言った。

 

 そして、彼はなんと『モダン・タイムス』を配給した時の資料一式を惜しげもなくディズニーに提供した。ディズニーは、RKOに対してチャップリンの条件を参考に商談をすることができた。

 

 1937年12月21日に行なわれた『白雪姫』のプレミア上映に参加したチャップリンは、七人のこびとの一人であるドーピーのことを「史上もっとも偉大な喜劇人の一人だ」と感想を述べた。やはり、アニメーションこそ自分の後継者であると認識したのだろう。

 

『白雪姫』は、アメリカ国内で400万ドル、海外で400万ドルという未曽有の大ヒットを記録した。公開からしばらく経って、映画ビジネスを教えてくれたチャップリンがわざわざディズニー社の帳簿を見に来たことを、ディズニーは生涯の自慢としていた。

 

 チャップリンがウォルトに教えたもう一つのことは、キャラクター・ビジネスだった。

 

 チャップリンは映画スターとしての肖像権を主張した最初の人物だが、この分野については後発のディズニーの方が、チャップリンを圧倒的に凌駕するようになる。

 

 その理由として、チャップリン本人がキャラクター・グッズにあまり興味を示さなかったことと、それに何と言っても、チャップリンが生身の人間であるのに対して、アニメのキャラクターだったミッキーマウスは商品化しやすかったことがあげられる。

 

 ディズニーがミッキーマウスの商品価値に気づいたのは、1929年のことだ。その頃、ディズニーは子供たちが繰り返しミッキーマウスを見るために映画館に通っていることに気づいた。

 

 また、同時期にロス・アンジェルス郊外のある劇場の支配人が、私的に「ミッキーマウス・クラブ」を作って、週末ごとに子供たちで劇場を満員にしているという話を聞いた。

 

 ある日そこに招待されたディズニーは、1000人の子供たちがミッキーマウスに声援をあげる姿を見て、彼が生み出したキャラクターの力を確信した。ディズニーはミッキーマウス・クラブを全国展開し、1930年中頃にはその会員は100万人を超え、社会現象になった。

 

 週末ごとに映画館に行きたくなるほど愛されているキャラクターを、常に手元に置いておきたいと望む人々が現れるのは時間の問題だった。

 

 1930年代初頭、ニューヨークのホテルに滞在中だったディズニーのもとに、ある男性が子供用のメモ用紙にミッキーマウスを印刷したいので許可が欲しいと訪ねてきた。当時、お金に困っていたディズニーは、300ドルで了解。これがミッキーマウス・グッズの第1号だ。

 

(ちなみに、ディズニー社として初めての正式な契約は、1930年2月3日にニューヨークのジョージ・ポーグフェルド社とミッキー&ミニーの絵のついたおもちゃを作ったことだった)

 

 以後、チャップリンと同じように、様々な商品にミッキーの図柄がプリントされるようになっていった。

 

 当時、他のアニメーションでも、キャラクター・グッズは存在した。しかし、その多くは配給会社が販売したり宣伝のために無料で配布したりするもので、製作者の利益にはなっていない場合が多かった。ディズニーはすべての権利を自分のものにしていたので、グッズの売り上げを製作費に回すことができたのだ。これもチャップリンの教えの賜物であった。

 

 1933年、グッズを専門的に扱う会社としてウォルト・ディズニー・エンタープライズを設立。ブランドの大切さをわかっていたディズニーは、各ジャンルの優良大手企業とだけ契約する方針にした。

 

 その結果、食品大手のゼネラルフーヅはシリアルの箱にミッキーマウスを印刷する権利料として100万ドル払い、宝石のカルティエはミッキーマウスのブレスレットを売り出すなど、大手企業とのコラボレーションでミッキーマウスはますます価値を上げた。

 

 1934年には、ミッキーマウス関連グッズの売り上げは、全世界で7000万ドルとなり、その年の権利収入だけで20万ドルを記録。グッズの権利収入が映画の収入を大きく上回るようになっていった。

 

 

 以上、大野裕之氏の新刊『ディズニーとチャップリン エンタメビジネスを生んだ巨人』(光文社新書)をもとに再構成しました。固い友情と時代に翻弄された離別。知られざる2人の師弟関係とは?

 

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写真:mptvimages/アフロ

 

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