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真珠湾攻撃「捕虜第一号」海軍の歴史から消された男の数奇な人生

社会・政治 投稿日:2021.08.14 06:00FLASH編集部

真珠湾攻撃「捕虜第一号」海軍の歴史から消された男の数奇な人生

戦死した9名は “九軍神” として讃えられた(TopFoto/アフロ)

 

 戦争終結までの4年間、酒巻少尉は米国内の収容所を転々として過ごし、1946年1月に日本に帰国する。その収容所生活の間に、彼の心は大きく揺れ動いていた。

 

「当初、捕虜になったことを恥ととらえていた父は、尋問にあたった米軍の将校に『いっそ殺せ』と食ってかかったせいで、自殺を警戒されて厳しい監視下に置かれていましたが、1942年3月、ウィスコンシン州にあったマッコイ収容所に移送されたころ、死生観に劇的な変化が生じました。

 

 真珠湾での敗北も、政府への批判も包み隠さず報道する米国の自由のあり方、その資源の豊富さ、快活な国民性。かたや日本は目先の勝利に酔いしれ、有頂天になっている。その落差に愕然とした父は、 “アメリカ人に劣らない思慮のある日本人になろう” と決意します。

 

 それまで死を願っていたのが、生きようという姿勢に転じたのです。それからの父は、収容所を “修養所” と心得るようになりました。教養や精神の向上を図るための修業の場ということです」

 

 酒巻少尉は、煙草や菓子の代わりに筆記具や英語辞書、新聞や書籍を所望し、英語力を高めていった。やがて収容所には、ミッドウェー海戦などで捕虜となった海軍将兵らが合流することになるが、彼らもまた虜囚(りょうしゅう)の辱(はずかし)めを受けたことから、死を望んでいた。

 

 酒巻少尉はそんな彼らに、「生きることは恥でも罪でもない。生きて日本に帰り、祖国の再建に貢献することこそが大事なのだ」と説いては、軽挙妄動を戒めつづけた。

 

■「割腹して英霊に詫びよ」帰国後に非難の手紙が

 

「収容所で身につけた英語力を生かして、父はリーダーとして捕虜の処遇に関する米軍との交渉の席に着いていました。下士官や兵たちからの信頼も篤く、彼らを生きようとする方向へと向かわせたのは父だったんです」

 

 しかし4年間の捕虜生活から解放され、祖国への帰還を果たした酒巻少尉を待っていたのは、心ない仕打ちだった。「捕虜第一号帰国」と、新聞が派手に報じたこともあって、「割腹して英霊に詫びよ」といった非難の手紙が殺到したのだ。

 

 軍人として華々しく散るという選択肢を取らなかったことを卑劣漢ととらえるような風潮は、戦後間もない当時、まだ残っていた。

 

「その後、郷里の徳島で農業を営んでいましたが、そこに海軍兵学校で同期だった豊田穣さんが訪ねてきました。のちに直木賞作家となる人ですが、当時は新聞記者。彼の手引きで、父は捕虜時代の体験記を連載したのです。さらに、それがきっかけとなってトヨタ自動車工業に入社。1969年にはブラジルトヨタの社長として赴任することになります」

 

 まさに数奇な人生を送った酒巻和男元海軍少尉は、1999年11月、81歳で逝去。日米開戦80周年のいま、じっくりと振り返りたい足跡がそこにあるー。

 

写真・馬詰雅浩、TopFoto/アフロ、近現代PL/アフロ
取材&文・岡村青

 

(週刊FLASH 2021年8月17日・24日号)

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