「『天皇』という称号は、外交上、わが国の独立の象徴だったのです」
そう語るのは、神道学者の高森明勅氏だ。天皇の捉えられ方の変遷において、初めて「天皇」の語が史実に登場するのは、608年のことだという。
「遣隋使の小野妹子が隋の皇帝・煬帝に渡した文書に『東の天皇から西の皇帝へ』というような記述があります。隋と同じ『皇帝』を名乗るわけにはいかないが、下位の『王』にもとどまらないとして、まだ存在していなかった称号が誕生したとされています」(高森氏・以下同)
当時の天皇は第33代・推古天皇。同時期に、国内でも「天皇」の称号が、大きな意味を持つようになった。
「それまでの天皇は、豪族の代表者といった立場でした。それが土地や人の支配をめぐり、各豪族が対立するようになっていきました。そこで摂政だった聖徳太子は『国家が民衆の生活に責任を持たなければならない』という思想を打ち出したのです。これにより、天皇は豪族による民衆支配にブレーキをかける役割を持ちました」
第41代・持統天皇(在690~697)以降、日本は律令国家へ変貌していくが、すでに現代の象徴天皇制に通じる枠組みが出来ていたと、高森氏は言う。
「全権力を皇帝に集中させた中国に対し、日本では国家統治の『権威』を天皇が担い、『権力』を握る最高責任者を天皇が任命する、という形が出来ました。これにより国政上の失敗があっても、天皇に直接の責任が及びません。
おかげで、他国なら国が滅んでしまうような出来事に、日本はすべて天皇より下のレベルで対応し続けることができました。現在でも、内閣総理大臣の任命などは天皇の仕事。その意味では、日本は世界に唯一、存在する『古代国家』なんです」
現在のようにメディアのない時代、天皇の名はどれだけ浸透していたのか。高森氏は「古代の人間が天皇を知らなかったことはありえない」と語る。
「天皇と民衆の関係を知るために、重要な儀礼が『大嘗祭』です。大嘗祭は、天皇が即位されたとき、毎年の新嘗祭をただ大規模に、丁寧におこなうと誤解されがちですが、そうではありません。
大嘗祭のときだけは、祭儀に必要な稲を天皇専属の田ではなく、卜定(ぼくじょう=占い)で選んだ一般の田から収穫します。民衆はその稲を献上するために上京します。これが彼らには晴れ舞台。天皇と民衆が直接、つながる儀礼でした」
江戸時代以降も、百人一首が庶民の娯楽として普及したり、浄瑠璃に「天皇劇」と呼ばれるジャンルが登場したりと、皇室は身近ながらも尊敬を集める対象として機能してきた。
「江戸幕府の大政奉還後、武士にとって命を捨てるような政策だった廃藩置県が成功したのも、明治天皇の権威があったからこそ。日本の近代化に至るまで、天皇は大きな役割を果たしてきたのです」
象徴は一日してならず、だ。
(週刊FLASH 2017年1月10日号)