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「特攻隊鉄心隊」で出撃した僧侶の次男“命は大切に”を継いだ姪が明かす「笑ツテ死ニマス」壮絶遺書【日米開戦81年】
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2022.12.09 06:00 最終更新日:2022.12.09 06:00
81年前の12月8日に始まった太平洋戦争。その後の戦況悪化にともない「特攻」という名による「十死零生(じっしれいせい)」の戦法が取られ、多くの若者が散華(さんげ)した。
その一人に「陸軍特別攻撃隊鉄心隊」の西山敬次陸軍少尉がいる。彼もまた、陸軍航空士官学校卒業からわずか8カ月後、フィリピン沖に散った。
1944年12月5日午後3時、鉄心隊第一陣の3機は、フィリピン・カローカン基地から次々と出撃。
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米軍の艦船が集結する、マニラ北東沖のスルアン島に機首を向けた。操縦するのは、隊長の松井浩陸軍中尉、西山少尉、長濱清陸軍伍長。
この日、攻撃目標地点上空の雲量はゼロで、視界はきわめて良好。両翼の真下に敵艦を眺め、薄暮攻撃にはもってこいの気象条件だった。
3機はいずれも1939年に生産が開始された九九式襲撃機で、すでに老朽化が激しかった。このようなポンコツ飛行機を特攻に駆り出さなければならないほど、日本軍は切羽詰まっていた。
“老体”にむち打ち、眼下に敵艦船群を発見するや直ちに攻撃態勢に入り、機体もろとも突入。それぞれ駆逐艦一隻、貨物輸送船二隻に命中し、米軍に甚大な損害を与えた。
松井中尉23歳、西山少尉21歳、長濱伍長18歳だった――。
西山少尉の姪・八巻隆子さんは、福島県南相馬市原町区の丘に立つ原町飛行場関係者慰霊碑に線香を手向け、瞑目しながらこう語った。
「いかに国のためだったとはいえ死を目の前にして、胸の中ではさまざまな感情があったと思うんです。わずか21年の生涯であり、まして伯父は僧侶の次男でしたから。
私も寺の娘として生まれ、子供のころから両親に『命は大切にしなさい。生き物を粗末にしてはいけません』と言われて育てられたので、よくわかります。
でも、特攻隊員として選ばれた限り、命を捧げなければならない。その葛藤を想像すると切なくなります」(以下、八巻さん)
八巻さんの母は西山少尉の妹。西山少尉は西山一道、シン夫妻の次男として1924年3月、新潟県上越市に生まれた。
彼には兄と2人の弟、2人の妹がいた。生家は日蓮宗 守栄山善行寺で、越後高田藩主の松平家の菩提寺だ。
現在は八巻さんの弟が住職を務めている。
「私の母は、『兄はとても成績が優秀で、弓道が得意だった。だから、旧制中学の卒業を待たず、飛び級で陸軍士官学校に進んだのよ』と話しています。
ただ身長がなかったせいか、飛行兵になれるかどうかぎりぎりだったそうです。結局、合格して念願の航空士官学校に入りました」
西山少尉は旧制高田中学から飛び級し、1941年4月、東京市谷の陸軍士官学校(陸士)第57期生として入学。1942年2月、埼玉県朝霞の予科士官学校に進み、さらに1943年4月、当時の埼玉県入間郡豊岡にあった陸軍航空士官学校に移る。
そして1944年4月、同校を卒業し、鉾田陸軍飛行学校原町分教所(原町飛行場)に赴任した。西山中尉の陸士1期先輩の松井中尉も、ここで教官として後進を指導した。
1944年10月、ついに陸海両軍による特別攻撃隊が編制された。松井中尉、西山少尉ら10名が隊員に選抜され、11月4日、フィリピンへ飛び立つために原町飛行場から鉾田飛行場(茨城県鉾田市)に向かう。
途中、立川航空廠で特攻機を受け取り、それを操縦して鉾田に着陸した。
11月8日の出発時、松井中尉は9名の部下にこう告げた。
「わが隊はあの青空で全員死ぬのだ。あの美しい空を見ろ。白い雲が俺たちパイロットの暖かい毛布なのだ。ただし、俺たちには任務がある。敵艦を撃沈させない限り、絶対死んではならない」