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「特攻隊鉄心隊」で出撃した僧侶の次男“命は大切に”を継いだ姪が明かす「笑ツテ死ニマス」壮絶遺書【日米開戦81年】
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2022.12.09 06:00 最終更新日:2022.12.09 06:00
●鉾田飛行場を発ったあと、一人編隊から離れ実家上空へ
訓令後、今西師団長と握手を交わし、隊員たちは鉾田飛行場から出発した。途中、給油のため大阪、九州、沖縄、台湾などを経て11月16日、松井中尉、西山少尉、長濱伍長はひと足早くフィリピンのカローカン飛行場に着陸した。
「鉾田を飛び立つとき、家族は見送りに行けなかったのですが、離陸後、伯父は編隊から離れ、実家の上空まで飛んできて翼を大きく振り、旋回しながら飛び去ったといいます」
隊はカローカン飛行場に到着後、「陸軍特別攻撃隊鉄心隊」と改称。さらに2名の隊員が加わった。鉄心隊の隊員たちは日本軍が接収したマニラ港近くのホテルに滞在し、軍用トラックで飛行場との間を往復していた。
訓練中、日本から乗ってきた愛機が米軍の来襲で破壊されたり、隊員の一人が着陸に失敗し、瀕死の重傷を負って特攻出撃を断念するなどのアクシデントがあった。結果的に、当初12名編制だった鉄心隊は11名となり、そして全員戦死した。
12月5日夕刻、カローカン飛行場から出撃した鉄心隊は、掩護戦闘機隼9機に守られながら、スルアン島方面に向かった。眼下に敵艦船群を発見。まず松井機が猛然と突っ込む。続いて西山、長濱両機が突入した。
西山少尉は小磯國昭陸軍大臣より、感状と金鵄勲章が授与され、二階級特進で大尉に進級し、戒名も「鉄心院忠烈日敬居士」とつけられた。
「伯父の戦死後、牛革のトランクが実家に送り届けられ、中には遺書、遺影、軍刀、学校で使った教本などの遺品がぎっしり詰まっていたそうです。伯父がいかに几帳面だったかがわかります。もし生きていたら、いろんな話ができたでしょう。
私が母に怒られていたとき味方になってくれた叔父たちのように、きっと伯父もかばってくれたはず。でも、伯父のような人がいたからこそ、今の平和な日本があるんだとも思っています」
遺書は、天皇陛下や将校団、同期生らに宛てたものと、家族に宛てたものの2通が入っていた。
「笑ツテ死ニマス」「武人ノ本懐之ニ過ギルモノハアリマセン」と力強く決意を綴った西山少尉。日本を発つ際、実家上空を飛び回ったのは、その言葉とは裏腹に、「もっと生きたい」と伝えたかったからかもしれない。
取材・文/岡村 青