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頭は引き裂かれ耳も目も半分なく…クマに喰われた村人の遺体回収でさらなる惨劇【奥士別御料地ヒグマ事件】

社会・政治 投稿日:2023.05.20 06:00FLASH編集部

頭は引き裂かれ耳も目も半分なく…クマに喰われた村人の遺体回収でさらなる惨劇【奥士別御料地ヒグマ事件】

 

 いわゆる「人喰いクマ事件」では、長らく「5大事件」が知られてきた。

 

 もっとも有名なのが大正4年(1915年)12月に起きた「苫前三毛別事件」で、胎児を含めて7名が殺された。次に犠牲者を出したのが大正12年8月の「沼田幌新事件」で、4名が死亡した。明治11年(1878年)1月に起きた「札幌丘珠事件」では、筆者の調査によれば4名が喰い殺された。

 

 昭和になってからも被害は続いている。昭和45年(1970年)7月に発生した「福岡大学事件」では3名の学生が襲われ死亡した。また、昭和51年の「風不死岳事件」では、山菜採りに山に入った2人が喰われた。

 

 

 これら著名な事件のほかにも、実はほとんど知られていない人喰いクマ事件が、いくつも発生していた。それらは今では完全に忘れ去られ、地元民でさえ知る者がいない。

 

 しかし、150年におよぶ北海道開拓の歴史のなかで、開拓民を恐怖に陥れたのは間違いない。私たちは、これらの事件を改めて記憶にとどめるべきだろう。

 

「人喰いクマ5大事件」に加えられるほどの惨劇を紹介しよう。『士別よもやま話』(士別市郷土史研究会、昭和44年)に、古老の談話として次のような一文がある。

 

《士別でも奥士別御料十一線で三人死者を出したこともあるが、この三人死亡という事件は非常に多くあったために今日ではあまり記憶されていない》(及川疆氏)

 

 士別村(現士別市)周辺では、複数の住民が喰い殺される事件がいくつか報告されている。そのなかでももっとも凄惨を極めたのが、上記「奥士別御料十一線」すなわち朝日村登和理地区で発生した、4名が喰い殺され、1名が重傷を負った人喰いクマ事件である。

 

 この未曾有の凶悪事件は、しかしながら史料が乏しく、現在ではほとんど知られていない。朝日郷土資料室がまとめた冊子『朝日町登和里羆騒動の記録』と、当時の新聞報道等をもとに事件の経過を追ってみよう。

 

 士別村字上士別御料地在住の吉川伊平(37)は狩猟が趣味で、エゾリスやエゾライチョウを獲りに山に入ることが多かった。

 

 大正元年11月10日午前11時半、この年は根雪になるのが早く、吉川は近隣の伊藤幸平を誘って堅雪を踏みしめ、十線南十号山林中へ鉄砲を担いで出かけた。

 

 米元家宅の上手の山のあたりまで話しながら山道を歩いたが、吉川が「声がすると獲物が逃げる。少し離れて歩こう」と言い出し、2人は距離を置いて歩き始めた。

 

 そのうち吉川が獲物を見つけて発砲した。すると、わずか数十メートル先に潜んでいたヒグマが驚いて飛び出してきた。ヒグマはいったん大木に登り、吉川を見つけると飛びおりて立ち向かってきた。

 

 吉川は直ちに2弾を発射したが、ヒグマは怒って吉川に襲いかかり、即座に噛み殺してその肉を喰い始めた。これを目撃した伊藤は恐れをなして逃げ帰った。伊藤の急報を受けた集落では、銃を所持する6名が選ばれ、直ちに現場に急行した。しかし、ヒグマは吉川の肉を半ば以上食って、すでに逃げ去った後であった。

 

 一方で残った集落民も総出の支度に取りかかった。そのうち屈強の壮者であった宮本米造(31)、平留吉(26または27)、千田宗太郎(24)、時山類作(不明)の4人が連れだって、午後2時頃、吉川の死体を引き取るため、武器も何も持たず山に入った。

 

 しかし、不幸にも加害クマと行きあってしまった。最初に平が襲われ重傷を負い、次に宮本が近くにあった大木の洞に逃げ込んだところを顔面強打された。次に千田がひと噛みにされて即死し、時山は重傷を負いながらも近くの立木に逃がれ、帯で我が身を幹に結びつけた。

 

 そうとも知らぬ先発の銃手6人は、クマを捜索して山中を歩き廻っていたが、悲鳴を聞いて駆けつけ、凄惨な殺戮現場を目の当たりにした。

 

《時山を木より下ろし見れば頭は半分引き裂かれ耳も目も半分無く、宮本は倒木の下に潜り込み居り、かれこれするうちに四十余名の部落民が行き四人を持ち帰りし時に医師も来たりたれど、なにぶんの重傷とて平は十日午後六時半頃死亡し、時山は十一日未明死亡したり、宮本は余病発せざりせば一命は助かるならんと》(『北海タイムス』大正元年11月17日)

 

 一方で『朝日町史』に記載されている吉川伊平の妻テルの回想によれば、ヒグマの発見状況が少々異なっている。

 

「忘れもしない大正2年11月13日ですが、私の夫は猟が好きでその日も十亀さんという人と2人で木ねずみを取りに行ったのですが、今の米元さんの上の山で双方に別れたのです。

 

 そして、十亀さんの行った沢で熊が共喰いをしているのを見つけ十亀さんは私の夫にそれを知らせました。魔がさしたというか夫が鉄砲を撃ったのですが弾が入っていなかったので熊が襲って来たのです。

 

 十亀さんは逃げ帰ってその事を近所に知らせ、千田さん、時山さん、平さん、宮本さんが、マサカリを持って行けというのに何も持たずに駆けつけたのです。

 

 ところが熊は千田さん達が行ったとき山の峰を廻って後に来てそこでまた襲われたのです。宮本さんは木の根のほら穴に入り顔をはたかれたがどうやら助かりましたが、あとの人は皆熊に殺されてしまったのです」(開村10周年記念座談会『朝日町史』)

 

 クマに襲われたのに空身で山に入るのは理解に苦しむが、銃手6名が先発していたのなら納得できる。彼らと合流できなかったことが悲劇を生んだと言えよう。

 

 この事件のわずかひと月前に、クマ害が多発していたことから、「クマ1頭を捕獲した者に20円の奨励金を下付されたい」という建議が、北海道畜牛馬組合から道庁長官に対してなされたばかりである。吉川、宮本、平は、明治43年に入植して間もなく、まさに開拓の端緒についた矢先に起こった大惨事であった。

 

 なお、事件の翌年の大正2年9月18日、『北海タイムス』はこんな記事を出している。

 

《上川郡上士別村東内大部澤は毎年少なからざる熊害を被りつつありしが、(中略)十日夜同地植田某の唐黍(とうきび)畑に現れ喰い荒らし居るを見事銃殺したるが、当年五歳位の稀有の巨熊なり》

 

 地元では、この撃ち殺されたクマこそ、4人を喰ったクマではないかと噂されたという。

 

中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。

( SmartFLASH )

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