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ヒグマの口から大量にこぼれ出た人肉、咬みきられた首はまるで「さらし首のよう」…釣り人4人が連続で喰われた【美瑛村熊害事件】
社会・政治FLASH編集部
記事投稿日:2023.08.26 06:00 最終更新日:2023.08.26 06:00
美しい風景で知られる北海道の美瑛町は、かつてヒグマの出没多発地域として知られてきた。
特に大正期の15年間には、美瑛村を中心に、東川村、神楽村、芦別村など半径20キロ圏内で、殺害事件10件(犠牲者12名)、傷害事件3件(負傷者3名)が起きている。
大正14年(1925年)には、美瑛村で、釣り人ばかりを狙って喰い殺す獰猛な人喰い熊が出現した。当時の新聞に、その詳細が記録されている。
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大正14年6月18日、美瑛村市街地に住む雑穀商・近藤信一(35)と近所の丸一運送店店員濱岸睦志(23)の2名が釣りに出かけたまま行方不明となった。
付近の捜索がおこなわれたが、上流の山中に子連れの熊がいるのを発見して、命からがら逃げ帰り、あらためて在郷軍人消防団など100名ほどの捜索隊が鳴り物を鳴らしながら捜索した。
結果、21日になって村から3里半の山中オチャンベツ川岸で釣り道具や魚籠を発見し、そこから2丁離れた崖の下で近藤の遺体を発見した。
《(近藤の遺体は)胴体から上はなく、内臓はことごとく喰われ、また手足もむしり取られ、頭は崖の上に発見された。なお濱岸の死体は両足はなく、顔面は傷だらけで、内臓を喰らって土の中に埋めてあったが、実に目もあてられぬ惨状であった》(『小樽新聞』大正14年6月22日)
《釣竿はオチャンベツ川へ糸を垂れたままであったが、熊は後方から不意に両人を襲ったものらしく、少し離れたところに魚籠がもぎとられて転がっており、そこから五十間ばかりの所にシャツがむしりとられてあったところから見ると、両名は死にもの狂いで逃げたものと察せられ、その附近にはかなり格闘したらしい形跡もみとめられた》(『小樽新聞』大正14年6月24日)
一人の頭は胴体から咬みきられ、別な場所の岩の上へさらし首のように置かれていた。もう一人の胴体は土を掘って埋められていたという。実に戦慄すべき殺戮の現場であった。
また別の新聞は、《美英市街地を去る約二里の所に子熊が親熊に番をさせつつ両名の死体を食いおるを発見、ひとまず引返し青年団軍人分会其他の応援を得て二十一日早朝、熊狩りに赴きしも姿を見失へりと》(『読売新聞』大正14年6月22日)と報じており、加害熊が仔連れの牝であったことがわかる。
美瑛付近では毎年熊が出没し、前年秋も巨熊が市街地まで出て来ていたので、大々的な熊狩り計画があった。そこで、歩兵第28連隊に機関銃を装備した兵隊を出してくれるよう頼んだが、断られたという。加害熊は未獲のまま夏になり、3カ月後、ついに3人めの犠牲者が出た。
9月21日、美瑛市の釣師中村藤吉(63)が市街地から2里(8キロ)のルベシベ五線川へヤマベ釣りに出かけたまま戻らず、23日になって熊の被害にあったものと近隣の者数名が捜索したが、やはり見つからなかった。
24日になって、熊撃ち名人の農夫・斎藤金五郎が2名を従えて五線川を遡っていくと、焚き火の形跡を認めた。付近は笹が茂り、いかにもヒグマが隠れていそうなので、1人が投石すると、仔牛ほどもある巨熊が躍り出て猛然と飛びかかってきた。
すかさず発砲すると、肩甲骨に命中、逃げ出した熊の背に追い撃ちをかけ、3発で仕留めた。その後、付近一帯を捜索すると、ほど近い大木の根元に、左足、両手、顔面、臓腑が食い散らかされた藤吉の死骸が埋めてあるのを発見し、直ちに帰村して急報した。
この人喰熊は丈7尺(210cm)重量60貫(225kg)の5歳の牝熊で、前出の近藤らを喰い殺したのと同一のヒグマらしかった。
《同日市街地へ馬車で運搬の途中、一人が熊の背中に馬乗りになったところ、口中から前日飽食した人肉を多量に吐出した、その凄惨な様に人々は思はず戦慄して面をそむけせしめた》(『小樽新聞』大正14年9月26日)
その場にいた人々が、思わず「もらいゲロ」しそうになったほど凄惨だった。
ルベシベ川は、十勝から石狩に抜ける最短経路である。アイヌの踏み分け道だったが、同時にヒグマやシカなどの通路でもあったから、喰い殺された釣り人3名は、不幸にも熊の通り道に足を踏み入れてしまったのかもしれない。
実は、一連の事件の2年前にも、釣り人が行方不明となっている。
美瑛村にある井上旅館主人・井上萬太郎(64)は、友人とともに魚釣りに出かけ山中に分け入ったまま行方不明となり、20日たっても消息がつかめなかった。
《その当時は熊の出没はなはだしく、未だに行方不明なのは、たぶん熊に喰われたものらしく、十四日同村民および消防隊全部出動して大捜索中である。なお同行した友人某は、熊の出たのを見たまま萬太郎を捨て帰り、四五日経てから井上方を訪れ熊の出たことを話したため大騒ぎとなった》(『小樽新聞』大正12年8月15日)
井上がどこの川へ釣りに行ったのかは不明であるが、釣り人を襲う手口を見ると、おそらく同一個体の凶行と考えてよいのではないか。
この親仔熊の足取りを追うことは不可能に近いが、《美瑛村藤山農場に仔熊を連れたる巨熊出没し作物をくい荒らし夜間、空小屋数軒を破壊し鶏舎を襲う等危険なるため(中略)総出にて追撃せるもわずかに手負いをせしのみに終わり、手負い熊の復讐を恐れ隣接せるもの三四軒ずつ集団就寝の有様なり》(『北海タイムス』大正12年10月19日)との記事があり、この手負いの親仔熊が、釣り人4名を喰い殺したのかもしれない。
ところで、美瑛村周辺で、なぜ大正期に集中して人喰い熊事件が多発したのだろうか。その原因として考えられるのが、明治40年に設置された「陸軍美瑛演習場」である。美瑛演習場は主として歩砲兵の戦闘射撃を目的としており、実際には明治35年頃から射撃訓練地として使用されたようである。
演習場の周囲には、砲弾の音だけでなく、硝煙のニオイなどが広がっていた。動物が照明や臭気、騒音などにストレスを感じることはよく知られている。ヒグマが砲撃訓練によってどれほどストレスを受けたのかはわからないが、陸軍演習場がある美瑛村を中心に、半径20キロ圏内で殺傷事件が多発したのは事実なのである。
中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。
( SmartFLASH )
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