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骨は散り散り無惨、ヒグマに襲われた砂金採り、残されたのは髪のついた頭蓋骨と足の指【枝幸砂金地の食害事件】

社会・政治 投稿日:2023.09.09 06:00FLASH編集部

骨は散り散り無惨、ヒグマに襲われた砂金採り、残されたのは髪のついた頭蓋骨と足の指【枝幸砂金地の食害事件】

どうやら熊は、呼吸をしているかどうかで生死を判断するものらしい

 

 明治33年(1900年)、道北の北見枝幸(きたみえさし)地域で、ゴールドラッシュが巻き起こった。一説には、内地から1万人とも言われる砂金掘りが押し寄せたという。その大騒動は長らく語り継がれたが、いつしか歴史に埋もれ、人々の記憶から消え去ってしまった。

 

 一帯は、当時、千古斧を知らぬ大原生林がひろがっており、ヒグマの楽園であった。当時の「枝幸砂金」を伝える記事に次のようなものがある。

 

 

《従来は羆熊(ヒグマ)の跋渉に委ねたる地なりしをもって現時においても往々出没横行して、採取夫を恐怖せしむることありといえども、あえてこれがために被害を受けたることなしという》(「北海タイムス」明治33年9月14日)

 

 多数の人間が山中に分け入ったわりには、ヒグマによる殺傷事件はそれほど記録されていない。だが、道北のヒグマは獰猛なものが多い。空前の黄金ラッシュのさなか、やはりおそるべき人喰い熊事件が起きていた。しかも、人夫小屋を押し破り、2名を引きずり出して喰い殺すという未曾有の凶悪事件であった。

 

 当時の新聞記事から事件を再現してみよう。

 

 明治34年9月14日朝、頓別村字ビラカナイの山中で、富所林吾(52)が起きてこないのを不審に思った近くの者が、富所の小屋を訪ねてみると、天幕(テント)の外部に血痕が付着しているのを発見した。小屋のなかを窺うと、鮮血が飛び散り、惨状を極めていた。

 

 小屋付近の粘土に8寸あまりの熊の足跡を認めたので、ただちに警察に急報した。そして山中くまなく捜したところ、小屋の対岸の山腹に、富所が枕にしていた股引、腹掛け、筒袖および鑑札金員等が残されていた。さらに米味噌、塩サケ等には熊の歯形が残されており、それらが一面に散乱していた。しかし、死体はついに発見されなかった。

 

 2日後の9月16日夜、ビラカナイの山ひとつ隔てたイチャンナイの山田砂金採取事務所に、1頭の大熊が押し入った。そして、就寝中の大山栄助をつかんで引きずり出し、小屋の外に投げ出して重傷を負わせた。さらに松吉常吉がさらわれた。大山は危篤となり、松吉は行方知れずとなった。事務所にはもう1人いたが、布団のなかに隠れて危害を免れた。

 

 事務所の事務員で元軍曹の浜田建吉は、事件当夜は下山していたが、事件を聞いてただちに事務所に戻り、大山を介抱するかたわら、熊の再来を予期して、銃に弾を込めて準備を整えた。

 

 はたして翌18日午後6時頃、事務所の南から大熊1頭が現れ、前々夜に侵入した場所に向かって突進してきた。待ち構えていた浜田は銃口を出し、熊の接近を待ってズドンと一発放った。

 

 狙いは違わず、熊の脳天から左腹部に命中したが、一発の銃丸などものともせず、ますます猛り狂って小屋に迫った。そこで第2発が胸部に命中し、さらに第3発で撃ち倒した。

 

 そこに、ビラカナイで富所林吾の死体捜査に出ていた巡査2名が帰ってきたので、全員で熊の腹部を解剖・検視した。

 

 すると、胃にはなんらの残留物もなかったが、腸部から《左右の拇指(おやゆび)各一本ずつ、左の人差し指および薬指小指の連続せるものと髪毛の全部を認めるもの残りおり、人差し指には被害前日、松吉常吉が誤って負傷し布切れをもって傷口をくくりおりたるままの残留あり》(「北海道毎日新聞」明治34年9月28日)ということで、松吉が熊の餌食となったことが明らかになった。

 

 さらに事務所の西2町ほどのところに、常吉が就寝中に着ていた襦袢の裂けたもの、および肋骨と認めるものが噛み砕かれ、そのほか骨片が散在しているのが見つかった。

 

 熊は8歳、身長1丈あまり、黒色で、アイヌの鑑定によれば《付近にかくのごとき猛悪のもの棲息せざれば、他よりの渡り熊なるべし》という。おそらく、最初の犠牲者の富所も、松吉と同じく原形をとどめぬほど喰い尽くされたため、遺体を発見できなかったのだろう。

 

 こうしておそるべき人喰い熊は退治されたのだが、実はここに興味深い事実がある。この凶悪事件が発生するわずか2カ月前、頓別村から40キロ東の天塩村にも、恐るべき人喰い熊がうろついていたのである。こちらもまた、通行中の若者を襲い、頭部などわずかな部位を残してことごとく喰い尽くす凶暴ぶりであった。

 

 明治34年7月13日、天塩村の農夫・吉井孫三郎の次男某(19)が市街地へ買物に出かけたまま、翌々日になっても帰らず、家内一同が心配していたところ、15日午後、山中で某の所持品が発見された。ヒグマに襲われたものかと、近隣の農夫らが必死に捜索したところ、ようやく17日になって、某が熊に無惨に殺されているのを発見した。

 

《すでに被害の時より数日を経たる後のこととて、全身大方は喰い尽くされ、ただわずかに毛髪の付着せる頭蓋骨の一片と足の指片とを残せるのみ、骨散り血飛びて見るも無惨の有様なりき、(中略)某の所持せし赤毛布はずたずたに破れありしと、家出の時に新たに穿ち行きたる紺足袋もこれまたずたずたに切りおれしとより察すれば、某はいかに激しく熊と戦いしかを想像するに足るべし》(「北海道毎日新聞」明治34年8月7日)

 

 加害熊は《太さは大牛ほどもあり》、さらに《いまなお近辺を徘徊しつつあり》とのことで、村人がこれを銃殺しようと息巻いた。

 

 事件後、3カ月以上経ってから「加害熊が撃ちとられた」という続報が掲載された。

 

《先頃、天塩川筋および同市街地で若者二名とも猛熊の餌食となったが、(中略)このほど遠別村字マルマウツあたりに二匹の子熊を引き連れた大熊が出没し、アイヌ藤吉が幌延村ウブシ原野で撃ちとった》(「北海道毎日新聞」明治34年11月20日)

 

 その後、撃ち取られた親子熊が人喰い熊だと断定されることになる。

 

中山茂大
1969年、北海道生まれ。ノンフィクションライター。明治初期から戦中戦後まで70年あまりの地元紙を通読し、ヒグマ事件を抽出・データベース化。また市町村史、各地民話なども参照し、これらをもとに上梓した『神々の復讐 人喰いヒグマの北海道開拓史』(講談社)が話題に。

( SmartFLASH )

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