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松坂大輔 「明徳義塾」ライバル投手が23年ぶりのエール!「引退後は日本代表監督に」
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2021.07.16 11:00 最終更新日:2021.07.16 11:00
大谷翔平の二刀流の活躍が注目を集める中、日本球界では一人の男の野球人生に幕が下りようとしている。
「平成の怪物」と呼ばれた松坂大輔の引退が、7月7日、西武球団より発表された。1998年に横浜高のエースとして甲子園で春夏連覇を果たし、西武入団1年めの1999年に最多勝と新人王を獲得。その後も二桁勝利を積み重ね、2007年には米国へ。日米通算170勝を挙げ、五輪やWBCという国際舞台でも活躍した球界を代表する右腕がユニフォームを脱ぐ決断をした。
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「松坂世代」で、残る現役はソフトバンクの和田毅だけとなった。
1998年夏の甲子園でPL学園の投手として松坂と「延長17回」の死闘を繰り広げた、日本テレビの上重聡アナウンサーは7月7日にコメントを発表した。
「頭の中で覚悟はしていましたが、ついにこの日が来た、来てしまったとやはり寂しい気持ちになりました。(中略)何十、何百という病院や治療、リハビリをしている姿を見ていたので今はただ『もう投げなくていいよ。頑張らなくていいよ。お疲れ様。』と言いたいです」
この伝説の試合の翌日、横浜が準決勝でぶつかった相手が明徳義塾高だ。前日に250球を投げた疲労により松坂は左翼手として先発。8回まで明徳に0-6とリードを許すも、横浜は最終回に追いつき逆転勝利を収めた。松坂自身は9回表に登板し、明徳打線を封じている。
横浜に決勝点を与えることとなった明徳義塾の投手が、寺本四郎さんだ。試合終了時の整列後、寺本さんは松坂に「優勝してくれ」と声をかけた。寺本さんは翌1999年にロッテに入団し、3試合に登板。外野手に転向した後、2006年に引退した。
松坂の引退について、寺本さんが本誌に思いを語ってくれた。
「高校のときから松坂君がいたから、僕らは頑張ることができました。松坂大輔という人物の存在感、プレースタイルはずば抜けていました。いまは『松坂世代』でよかったなと、大輔と一緒の時代にいられたことに心の底から誇りを感じます。年齢には勝てない部分はあると思うんですけど、それでも若い選手と一緒になってもがいている姿は本当にすごい。彼が40歳でも必死にやっていると思うと、野球を離れた僕らも頑張ろうと思う。
プロ野球だけでなく、メジャー、国際大会での実績もすごく、記録と記憶を兼ね備えた選手です。日本代表の監督ができるほど偉大な存在です。引退しても夢を日本の子どもたちに与えて、引き継がせていってほしいです」
現在、寺本さんは地元・高知で家業の水産業に携わりつつ、環境保全の活動と児童養護施設でボランティアを行っている。