カタールW杯に向けて、“絶対に負けられない戦い” で2連勝した侍ブルー。その2試合でMVP級の活躍を見せたのが伊東純也(28)だった。中国戦では1点めとなるPKを誘発し、後半にはドンピシャのヘッドで追加点。サウジアラビア戦も1ゴール1アシストと、獅子奮迅の活躍だった。
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だが、代表に定着したのはロシアW杯後。ここに至るまでは、けっして順風満帆なサッカー人生ではなかった。サッカーを始めたのは小学1年のとき。地元・神奈川県の鴨居SCだった。父・利也さんが述懐する。
「近所のお兄さんに誘われて入部しましたが、すぐに夢中でボールを蹴っていました」
風邪を引くと学校は休むが、サッカーの練習だけは参加するような子供だったという。
「とにかくドリブルが大好きでした。試合でもドリブルでクルクル走り回って、相手ゴールの場所がわからなくなって、自陣にドリブルで突き進んだこともありました(笑)。点を取ることより、ドリブルで相手を抜くことのほうが好きでしたね。性格は負けず嫌い。一対一の練習でも、勝つまでやっていましたから」
だが、中学1年で横浜F・マリノスJrユースの入団テストを受けるも不合格。中学ではクラブチームに入り、進学した高校も強豪ではなかった。無名に近い存在だった伊東は、推薦で関東リーグ1部(当時)の神奈川大に進んだ。関森悟コーチが振り返る。
「2010年夏にセレクションを受けに来たんですが、性格がマイペースというか……。ただ、プレーには素晴らしいものがあったので、大森酉三郎監督とも話して即断でしたね」
大森監督もこう話す。
「強豪校出身の子はどこかピリッとしているじゃないですか。でも、彼は神奈川県でベスト32止まり。強豪大学からも誘われていたようですが、ある程度のんびり自分らしくプレーできると思ってウチを選んだんだと思います。ウチも、何かひとつ武器になるものを持った子を探していたんです。
そんなときに伊東を見たら、図抜けた速さとサウジ戦で見せたようなキック力を持っていた。スピードを制御できずにミスをすることもあったんですが、はまったときはモノが違った。
当時、僕は伊東が入部すると同時にいったん指導から離れたんですが、関森コーチに『彼をプロにできなかったら指導者を辞めたほうがいい』と言ったほどです」
才能は徐々に開花し、2015年にJ1の甲府に入団する。柏を経て、2019年からベルギーのゲンクで主力として活躍している。この2戦を終え、「欧州の5大リーグが注目しはじめた」と公認代理人が語るように、ビッグクラブが彼に触手を伸ばしはじめている。
「もう息子というよりは、ファンと同じような感覚で見ています。いろいろ活躍が報道されていますが、妻とも『あの子はどうしちゃったのかねえ』と、驚いているぐらいですから(笑)」(利也さん)
代名詞となった、フィールドをイナズマのように切り裂くドリブルを武器に、森保JAPANにとって “代えがきかない選手” となったことは間違いない。