強打者として、名伯楽として偉大な実績を残した中西太さんが5月11日、心不全のため亡くなった(享年90)。
中西さんは香川・高松一高時代に春1回、夏2回甲子園に出場し、その豪快な打撃から “怪童” と呼ばれた。卒業後に入団した西鉄では黄金期を支え、首位打者を2回、本塁打王を5回、打点王を3回獲得した。
関連記事:2022年プロ野球【最低の監督】アンケート…3位は中日・立浪、2位は巨人・原、1位は?
西鉄では選手兼監督として1963年にリーグ優勝。その後4球団で監督、監督代行を務め、そのほかにもヤクルト、近鉄、巨人、オリックスなどでも打撃コーチや臨時コーチを歴任。若松勉、岡田彰布、イチローらを育て上げた。
長い指導歴のなかでも特筆すべきは近鉄時代。“猛牛軍団” と恐れられた打者は、みな中西道場の門下生だった。
その強者たちがもっとも輝いたのが1988年10月19日。この日、ロッテとのダブルヘッダーがおこなわれ、リーグ優勝の決定が第2試合までもつれ込み、ファンの間では「10・19(じゅってんいちきゅう)」という呼び名で、今なお語り継がれている。
近鉄が連勝すれば優勝、近鉄が1試合でも負けるか引き分ければ西武が優勝という状況で、近鉄は第2試合を勝ちきれず、無念にも逆転優勝を逃した。
その試合に出た選手たちが、中西さんとの思い出を振り返る。
「中西さんは選手を乗せるのがうまかった」と語るのは、守備の名手、吹石徳一氏(70)。
「10・19のときも、得点が入ると一緒になって転がりまくって喜んでくれてね(笑)。お客さんはみんなドキドキしていたと思うけど、僕らは全然緊張とかしなかった。なぜなら中西さんが、『いくぞー!』と鼓舞してくれたから。
僕は10・19で本塁打を打ったし、翌年も現役を続けるつもりでした。でも、球団からコーチのオファーが来たんです。このとき推薦してくださったのが中西さんでした。
僕が入団したとき、仰木彬さんが二軍コーチで、僕は人柄をよく知っていたから、仰木さんが監督なら僕がいいだろうとね。今思うと、このときに引退してコーチになってよかった。
その後もコーチ、スカウト、社会人野球の監督、アドバイザーをやらせてもらっています。おかげで、この年になってもずっと野球に関われている。中西さんが、僕の第二の人生を切り開いてくださいました」
金村義明氏(59)も、中西さんの教えで伸びた一人だ。
「僕がスランプのとき、『そんないつも打てるか! 今こそ守備で頑張れ』と励ましてくださって。それでも落ち込んでいると『後ろを向け』と言って、腰のあたりに『○』を書いて、『これで大丈夫や』と。不思議と打てるようになったし、元気にもなりました。
10・19のとき、僕は手首を骨折していて試合に出られなかった。普通、遠征についていかないんですが、中西さんが『金村も連れて行こう。一緒にビールかけをやるぞ』と言ってくれた。嬉しかったなあ。
近鉄時代、一軍と二軍を行ったり来たりだった僕が、18年もプロの世界で飯を食えたのは、中西さんが野球のすべてを教えてくれたから。
女房に『中西さんが生きている限りは頼む』と、お中元、お歳暮を欠かさず贈らせていたんです。ところが今年の春先にお電話をいただいて『カネ、今年からはもう送らんでいい。俺も90歳やし、女房もお礼状を書くのが大変だから、絶対に送るな』と。それが、僕が聞いた最後の言葉になってしまいました」
伝説の2試合で、ともに代打として起用されたのが、左の強打者・栗橋茂氏(71)だ。
「中西さんといえば打撃のイメージだけど、僕には守備の印象も強いんです。
よく言われたのは、『捕るときはシングルで』ということ。僕らは子供のころから、常に『両手で』と教わってきた。でも、両手で捕りにいくと体が固まってしまうし、片手のほうが腕が伸びて届く範囲も広くなる。シングルって言葉を言いだしたのは中西さんなのかなあ。
攻撃のときは、ベンチの前に立ってハッパをかけていたね。盛り上げる意味もあったと思うけど、僕は『座れよ』と思っていた。だって、あの大きな体だから、グラウンドが見えないんだよ(笑)」
シュアな打撃で攻撃の軸を担ったのが新井宏昌氏(71)だ。
「私は1985年オフに近鉄に移籍し、当時は打ちにいくとミスショットばかりで、自分の打撃に悩んでいた。どうしたらいいのかわからなかったときに、中西さんと出会ったんです。『自分から力を出そうとしすぎ。投手の球の力を利用して打ちなさい』と言われました。
私は非力だったので、長打を狙うときはインパクトの瞬間にひねった体を最大限に生かそうとしていた。それがミスショットに繋がっていたんです。
アドバイスを受けて、まずボールの見方を変え、構えをクローズからオープン気味にした。すると、ボールにいくら力があってもとらえるポイントさえしっかりしていれば、反発力で勝手に飛んでいくとわかったんです。まさに、目からウロコでした。
出会いから2年後に首位打者を獲り、いとも簡単に打てる感覚になりました。体の力を抜き、とらえるポイントに集中するだけでよかった。結果、40歳まで現役を続けられ、名球会にも入れました。野球人生で数少ない、素晴らしい出会いでした」
すでに球界を代表する捕手だった梨田昌孝氏(69)は、「中西さんは教え魔だった」と語る。
「チームの選手に教えるのは当然ですが、他チームの選手でも聞きに来たら教えちゃう。
あるシーズンの西武との試合前のこと。相手選手に対し、具体的に『こうやって打つんだ』と熱心にやっている。僕は捕手だし、いやだなあと思いながら見ていました。すると、その選手が決勝打を打ったんです。しかも中西さんは、『おい、ナシ。俺が教えた選手が打ったやろう』と喜んでいるわけです(笑)。
僕は『え〜』と思いながら、やっぱり中西さんは野球が好きなんだなあと思って。教えるときは、チームは関係なかったですね。でも、本当に私たちを元気にしてくれた大恩人です」
入団2年めから中西さんの指導を仰ぎ、ティーバッティングを徹底的にやって開眼したのが村上隆行氏(57)だ。
「中西さんは選手の体調や状態を把握して、日ごとに球を出す位置を微妙に変えて打たせていました。一人ひとり修正点が異なり、とことん付き合ってくれたんです。ときに自分で打って見せてくれて。当時、けっこうな年でしたが、ボールとバットの当たる破裂音が、僕らよりすごかった(笑)。
僕らはマメができ、手の皮が剥け、その上にさらにマメができて、バットを握った手が開かなくなるほど振り込むんです。一日1000スイングはしていました。
そんな僕らに、『苦しいよな。今お前たちがやっているのは土台作り。でも、こんなに練習してもうまくいかないことが多い。クソ〜って思う。それでいいんだ。なにくそと思わなければいけない。自分が独り立ちするためには、苦しみ抜かんとあかん。苦しみ抜いて初めて、ひとつのものを掴めるんや』と、よく語りかけてくれました。
中西さんの座右の銘は “何苦楚” で、僕も帽子のつばと、スパイクに書いていました。今はソフトバンクの二軍打撃コーチをしていますが、うまくいかないことも多い。でもそれは、人間としての基礎ができていないからだと思えるんです。
もっと苦しむぐらい頑張らないといけない。そう思って今までやってこられたのは、中西さんのおかげです」
8球団で指導した中西さんに師事した選手は数多い。侍ジャパンの栗山英樹監督もその一人で、「WBCの世界一も、中西さんのおかげ」と語っている。