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中西太さん 川崎球場を超満員にした「10・19」伝説を愛甲猛が振り返る「あれだけ前に出てくるコーチはいなかった」

スポーツ 投稿日:2023.06.03 18:25FLASH編集部

中西太さん 川崎球場を超満員にした「10・19」伝説を愛甲猛が振り返る「あれだけ前に出てくるコーチはいなかった」

2019年4月、西武対ロッテ戦の始球式を務める中西太さん(写真・共同通信)

 

“野武士”軍団と呼ばれた西鉄ライオンズで活躍し、本塁打王を5回、打点王を3回、首位打者を2回獲得した“怪童”中西太さんが亡くなった。享年90。

 

「いずれかが2位で三冠王にかすったこと、4回ですからね。入団2年めでの3割30本30盗塁のトリプルスリー、推定飛距離160mといわれる平和台球場のバックスクリーン越えの大ホームランなど、伝説はいくらでもあります。7年めで手首を壊し、西鉄球団のお家騒動なども関わって、2000本安打には届きませんでしたが、球界ではまさにレジェンド級の成績を残しています」(スポーツ紙記者)

 

 

 また、指導者としては8球団を渡り歩いた。とくに1985年から1988年に一軍打撃コーチ、1989年から1990年にヘッドコーチを務めた近鉄時代は多くの打者を育て上げ、盟友の仰木彬監督とのタッグで1989年のリーグ優勝に貢献した。

 

 その前年、1988年にはあの伝説の「10.19」、10月19日におこなわれた近鉄とロッテのダブルヘッダーもあった。近鉄が連勝すれば西武を逆転して優勝という大一番。結果、2試合めが延長10回で時間切れの引き分けとなり、優勝を逃した。

 

「いつもガラガラだった川崎球場は超満員、2試合めの途中から急遽、テレビは全国で生中継をし、近鉄の地元関西地区では視聴率が46.7%を記録するなど、列島全土が熱狂しました。ロッテの有藤通世監督の執拗な抗議で時間切れ、という展開も話題を呼びました」(前出・スポーツ紙記者)

 

 第1試合で先制2ランを放った、ロッテの主砲・愛甲猛氏が、相手チームだった中西さんを追悼する。

 

「あのときはね、中西さんもイライラしてたなあ。有藤さんが抗議をしているときに、仰木さんと一緒にベンチから出てきたりしてましたね。中西さんもベンチ前のパフォーマンスがデカかった。あれだけ前に出てくるコーチなんて、なかなかいませんよ。

 

 あの試合は、いまだから言えるけど、ロッテは近鉄に負けてもいいと思ってた。でも、仰木さんが有藤さんを怒らせちゃったんですよね。試合中にね、ロッテの佐藤兼伊知さんが、自打球をヒザに当ててバッターボックスで倒れた。コーチやスタッフが走り寄って『大丈夫か?』と声をかけていたら、仰木さんがトコトコ出てきて、佐藤さんに向かって『痛ければ代われば?』と言ったんですよ。それに有藤さんが、『アンタ、関係ねえだろ!』と激怒。そこから急に、有藤さんは『近鉄に勝たすんじゃねえぞ!』とか言い出して。それで9回裏の攻撃のとき、セカンドでの牽制アウトの判定に対して塁審に詰め寄って抗議したんですが、それが時間稼ぎみたいになったんですよね。中西さんは、めちゃくちゃイライラしてて、ウロウロしてるのが見えました」

 

 当時、ロッテは近鉄に負けまくっていた。

 

「近鉄とロッテの対戦成績は、あの時点でロッテが10連敗してたんですよ。最後の最後に引き分けたんですけど、10連敗中にひとつでも勝ってれば、そこで西武の優勝は決まってたんです。単純にロッテが負けすぎて物語を作っちゃったんですよ。そもそも『10.19』に至るまで何やってたんだって話ですよ(笑)」

 

 中西さんの熱血指導は、ほかのチームの選手にも知れ渡っていた。

 

「近鉄は、中西さんがとにかく打者を鍛えて、豪快にフルスイングする選手が多かった。中西イズムが浸透してるんだなあ、と思って見てましたね。細かいテクニックよりも、強く速く振ることが大前提。だから、近鉄はけっこう手首を壊してる選手が多かったですよ(笑)。やっぱりリストをきかせて打つから。

 

 敵チームなのに、じつは俺は中西さんからけっこう目をかけられていて、よく声をかけてもらったんですよ。『お前、もっと飛ばせるだろ! 飛ばし方、教えてやるよ』とかね。1994年には、ロッテでもヘッドコーチになった。

 

 指導はねえ、もう熱い熱い(笑)。教えだすと長いんですよ。もちろん、タメになりましたね。スイングの軌道や、スピードを鍛えられましたから。インコースの低めもうまく打てるようになりました。

 

 中西さんはまあ、腕っぷしが強かった。たまにティーバッティングを打って見せてくれると、打球がめちゃくちゃ速い。ブンブン音を立てて、バットを振るんですよ」

 

 174cmと、小柄ながらみっしりと筋肉が詰まった体型。コーチ時代もその体躯は変わることなく、選手を鍛え続けた。

 

「いわゆる野武士的な野球を体現してたなあ。そこに繊細さが加わったのが、オチさん(落合博満)って感じですかね。とにかく遠くに飛ばすってことでは、2人は近い。オチさんも体がデカくなかったし。僕が教わってたとき、オチさんは中西さんの話してましたよ。同じ右だし、参考にしてたんですね」

 

 中西さんには、よくティーバッティングの相手をしてもらっていたという。

 

「中西さんの独特な人柄だと思うのが、ティーで投げるときにこっちを見ないんですよ。普通教えるときって、お互い顔を見合わせて会話すると思うんですが、いつも喋るときにそっぽ向いてるんですよね(笑)。目を合わせて話してくれない人だったんです。シャイだったのかなあ……わからないけど。教え方はシンプルで、わかりやすかった。実際、中西さんに教わってから、打撃成績はよくなりましたからね(1993年の.251から1994年は.291にアップ)。バッティングの質が上がったと思いますよ」

 

 とにかくバットを振り続け、豪快に野球人生を駆け抜けた中西さん。

 

「もう、ああいうタイプのコーチはこれから出てこないでしょうね。あれだけ監督より前に出てくるコーチはね。“俺は中西太だ!”って出てきたら、誰も文句、言えなかったですからね(笑)。本当に熱血漢でした」

( SmartFLASH )

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