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【3・18センバツ開幕】部員21人の伝統校が創部120年めの初出場 校名どおり「耐えて耐えて粘り勝つ!」
スポーツFLASH編集部
記事投稿日:2024.03.17 06:00 最終更新日:2024.03.17 06:00
和歌山県立耐久高校。なんともインパクトあふれる初出場校だ。創立はなんと1852年。ペリー来航の1年前にまでさかのぼる。
そんな「超」のつく伝統校に1月26日、吉報が届いた。3月18日に甲子園で開幕するセンバツ高校野球の代表校に選ばれたのだ。2023年秋の近畿大会で、ベスト4に進出した実績が評価されたためだ。
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和歌山市中心部から南へ約35kmの有田郡湯浅町。決して中心街ではないが、醤油醸造発祥の地として有名なこの町に、耐久高校はある。
「この高校のルーツである稽古場・耐久社があった広川町の歴史を語るのに、濱口梧陵氏の存在は欠かせません」
と語るのは、野球部OB会の栗山圭悟さん。創設者のひとりである梧陵は、湯浅町に隣接する広村(現・広川町)で生まれたヤマサ醤油の7代目。1854年の安政南海地震の際には大津波を予見し、町を救った“ヒーロー”だ。
住民に急を知らせ、暗がりの中で避難路へ誘導させるため、田んぼに積んであった収穫された稲束(稲むら)に火を投じて、地域の住民の約95%を救ったという。この逸話は『稲むらの火』として語り継がれてきた。
その後、私財で作った全長600mの「広村堤防」が、1946年に起きた昭和南海地震の津波を食い止めた。そんな梧陵が、1852年に開いた稽古場が校名の由来になった。野球部も、日露戦争が終結した1905年の創部という長い歴史を持っている。
今回の快挙を導いたのは、2019年4月から指揮を執る井原正善監督だ。苦笑交じりに野球部の歴史をこう語った。
「『歴史はあるが伝統はない』と、選手たちにはずっと言ってきました。僕もここのOBだから言えることですけどね(笑)。それに、町の有望選手はよそに出ては行っても、よそからウチには入ってはこんかったんです」
その言葉どおり、創部119年の“歴史”を持ちながら、勝利の経験はなかったのだ。これまで、春夏通じて県大会の決勝に進んだことすらなかった。
野球熱は高い地域ではあるものの、多くの実力選手は電車1本で通える、全国優勝4回を誇る箕島高校や、和歌山市内の強豪校に流れる。耐久高校の部員数は女子マネージャー2人を含めて21人だ。これは今回の出場校で、21世紀枠校を除いた一般選考枠で選出された高校のなかで、もっとも少ない人数だ。
グラウンドは他部との併用で、打撃練習ができる時間帯が限られている。平日の練習時間は、完全下校と定められている20時までと、他の強豪校に比べて決して長くない。それでも、大阪桐蔭などの私学を中心とした、強豪がひしめく2023年秋の近畿大会で、結果を残した。
この大躍進の立役者も、校名と並んで一度聞くと忘れられないインパクトを持つ。井原監督は「やっぱり冷水孝輔の力が大きいですね」と大黒柱の名をあげる。
姓を「しみず」と読むエースは、県大会でもすべて先発し、近畿大会では2日続けておこなわれた1回戦の社(やしろ)戦と準々決勝の須磨翔風戦で計270球を投げ抜き、チームをセンバツ出場に導いた。
また、5日後に迎えた準決勝の京都外大西戦は味方の援護なく敗れたが、1失点完投と好投を続けた。彼自身に投球スタイルを聞くと、そこにもやはり“耐久力”が垣間見えた。
「ピンチの場面でも耐え抜くということは、ずっとやってきたので、それが自分の投球スタイルになっています。ボールを投げることがとにかく好き。暇さえあれば投げたいタイプです。“どうやって投げよう”などと考えることが好きなんです」
そんなタフネス右腕は、142km/h超のストレートと、カットボール、スライダー、ツーシームといった変化球をほぼ同じ腕の振りで投げ分ける技術を併せ持つ。高い制球力で無駄な四球を出さないばかりか、ストライクとボールの分かれ目となる、きわどいゾーンへの出し入れにも長ける。では、身近で彼を見ている部員は、どう評するのか。
「冷水がチームでいちばん謙虚です。守備中心の野球がチームカラーですから、センバツでも耐えて耐えて、粘って勝ち切りたい」
そう語ったのは、赤山侑斗主将だ。前出の井原監督も、冷水の性格にこう舌を巻く。
「すごくいい奴なんです。味方がミスしてもまったく気にしないし、エラーが絡んだ失点だとしても『点を取られたのは僕なんで』と、サラッと言えてしまう」
当然、センバツでの活躍には、他の選手たちの力も欠かせない。その根幹となるのが「練習の質」だ。練習時間こそ少ないが、部員数が少ないため、シートノックでも各ポジションには2~3人しかおらず、必然的に数多く球に触れることができるのは大きい。
地域住民から声をかけられることも増えた。井原監督は「『おめでとう』と言われることが、当初は多かったのですが、最近は『ありがとう』が増えてきたんです。地元の人たちが、ウチのセンバツ出場を自分ごとのように感じてくれているようで、それがすごくうれしいんです」と目を細めて語った。
耐久高校の前身を作った梧陵は、「困難を乗り越え、永続してほしい」という願いを込めて稽古場の名を「耐久社」と名づけたという。名士により守られ育まれた土地で、多くの人によって支えられてきた「小さな町の伝統校」がいま、172年の長い歴史に新たな1ページを刻む。
取材/文・高木 遊 写真・馬詰雅浩