−−日本のプロ野球の応援団の歴史に、フーリガンも顔負けのそんな時代があったとはまったく知りませんでした。応援活動のなかで、印象に残っているエピソードは?
T「1995年6月20日の横浜戦(横浜スタジアム)で、新庄剛志が打ったホームラン性の打球が、僕らの仲間が振っていた応援旗に当たって、二塁打になった事件かな。
判定に阪神応援団が怒って、メガホンや太鼓をグラウンドに投げ入れた挙げ句、グラウンドに飛び降りた奴までいたなあ」
G「あったね~。あの一件で、横浜スタジアムでは外野席の前のほうでの旗振りが禁じられたんだよね」
T「あと2001年オフに、当時、日ハムの片岡篤史がFA宣言したじゃない。あのとき、日ハムとの交渉を終えて、事務所から出てきた片岡の前で土下座して『片岡さん、うちに来てください!』ってやったのも、僕らの仲間(笑)。そのおかげか、片岡は本当に阪神に来てくれたんだよ」
G「自分は1997年かな。清原和博が巨人に移籍してきて1年めのナゴヤドームで、名古屋の巨人応援団が、不振が続いていた清原の応援をボイコットした。応援歌もコールもなし。
それに怒ったうちらの仲間が、翌日新幹線に飛び乗って、名古屋の巨人応援団の席に乗り込んでいったよ」
P「うわー、アツいですね」
G「そもそも巨人と西武(の選手)は、1990年代前半までオールスターで応援がなかったんだよね。ほかの10球団の応援団から、セは巨人、パは西武が目の敵にされていて、俺たちはオールスターに入れてもらえなかった。
だから、巨人と西武の選手が打席に入っても、応援歌が流れなかった。うちらはそれが納得できなかったから、セの応援団に事前に乗り込むことを伝えて、乱闘覚悟で、1995年のオールスターに十数人で乗り込んだよ」
T「Gさんたちの行動がきっかけとなって、ヤクルトを中心とした12球団応援団の懇親会ができて、そこから解消されていったんだよね」
−−応援歌っていう文化は、どうやって始まったんですか?
T「選手個々の応援歌を始めたのは、広島が最初。今でこそ『カープ女子』なんてのが流行ってるけど、昔の広島市民球場の時代だったら、絶対定着してないからね。ガラの悪いファンばっかりなんだから、女子なんて寄りつかないよ!」
G「間違いないね(笑)」
P「応援歌といえば、昔ロッテに大村巌(現一軍打撃コーチ)って選手がいたんですけど、大村のテーマ曲は、童謡『ゆかいな牧場』の歌詞にちなんだ『イワイワオー』という応援歌だったんですよ。
でも、あるとき大村本人が応援団に、応援歌の変更を申し入れたこともあったみたいですね(笑)」
G「ロッテの応援団が持ち込んだ、サッカー寄りの応援スタイルは、その後の応援スタイルに影響を与えているよ。外野席でのジャンプとかもそうだけど、ファンがユニホームを着ての応援も、ロッテがいちばん最初でしょ?」
P「そうですね。セでは巨人が走りじゃないですか?」
G「うちだね。あと、ロッテと巨人の応援団との間で、『どっちが先に始めたか』のタオル回し論争もあったよね。あのときはNHKでも特番が組まれてたけど」
P「パの応援団も今でこそ盛り上がってますけど、それは客が入るようになったからですよ。
昔のパの球場なんて数えたことがあるんですけど、あるとき10数人しかいない外野席の日ハム応援団の数と、一般客の数がほぼ一緒だったことがありましたよ(笑)」
T「川崎球場なんて、エロいことしてるカップルとか普通にいたでしょ(笑)」
P「あと笑ったのが、ダフ屋って、普通はチケットを定価より高く売るものじゃないですか。でも、ある日の藤井寺球場のダフ屋は、定価よりも安い金額でチケットを売っていたんですよ(笑)」
G「余るくらいなら、安くてもいいから売っちゃえってことだったのかね」
P「僕はパの不人気な時代も見てきたから、そういうことのほうが記憶に残ってますね」