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林家たい平、救われたのは初めてほめてくれた師匠の言葉「最近よくなったね」
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2021.12.19 11:00 最終更新日:2021.12.19 11:00
今年で開場70年となった池袋演芸場。落語協会、落語芸術協会の定席としてファンに親しまれている。林家たい平と待ち合わせをしたのは、この演芸場と同じビルにある居酒屋「南国ファミリー」。演芸場の入口は「西一番街中央通り」に面しているが「南国ファミリー」の入口は裏手の「エビス通り」にある。
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「師匠の(林家)こん平がよく池袋演芸場の高座を務めていたこともあり贔屓にさせていただいています。こん平は演芸場にいるよりこちらにいる時間のほうが長かったくらい。私が初めて連れてこられたのは前座になってすぐですから、かれこれ三十数年前です」
「はい、お待ちどおさま」
たい平が「ママさん」と呼んで慕う女将さんが特製の梅肉サワーを運んできた。
「じつはこれ、メニューにないんです。こん平がお願いして作っていただいた裏メニュー。飲んでいるうちに梅がくずれていい感じになり、お代わり(焼酎)を空いたグラスに入れるから最後はすごい状態になっちゃう」と笑うたい平に落語との出合いを聞いた。
■小さん師匠の「粗忽長屋」で美術から落語を
「『3年B組金八先生』(TBS系)に影響されて高校時代は教師に憧れました。ただ一般科目が苦手だったので、好きだった美術の先生を目指して武蔵野美大に進学。
そこで落語サークル、落研に入ったんです。それまで落語とは無縁、聴いたこともありません。初めて部室に行ったら先輩方がコタツに足を突っ込んでワイワイと廃部の相談をしていて驚きました。部員がほとんどいなかったんです」
一人暮らしだったので仲間と一緒にいる空間は心地よかった。たい平は廃部阻止のため新入部員の勧誘を始めた。
「その年に10人、翌年も10人が入部。女子学生も増えて落研は一大隆盛期を迎えました。『とにかく楽しもう』をモットーに、落語ではなくお好み焼きパーティを企画したりしました」
そうこうするうちに大学3年生になっていた。深夜、下宿で課題作品に取り組んでいたとき衝撃の経験をした。
「聴いていたラジオから五代目柳家小さん師匠の『粗忽長屋』が流れてきました。それがSFの世界観もあっておもしろく、夢中で聴き入ってしまいました。聴き終わると……今まで落語を知らなかったことがとてもショックで。落研にいたのに(笑)。
それから『落語という絵の具でデザインを作り、それで人を元気にしたい』と思うようになったんです。自分が落語をやるというより、落語の楽しさを広めたいという気持ちでした」
「なんとかして落語家と知り合いになりたい」と思った大学4年のとき、上野にある鈴本演芸場で働いていた落研の先輩からポスター制作の手伝いを依頼された。
「そこでのちに兄弟子になるうん平を紹介され、林家一門のおおらかさ、芸風、家風、『人を笑わせたい』という熱い思いにふれました。落語の素晴らしさも知り、こん平に入門を志願したのですが『卒業してもすぐには弟子に取らないよ。お前さんが落語家として務まるかどうかを見るから』と言われました」
たい平は大師匠の初代林家三平の内弟子になった。行儀見習いである。
「掃除、洗濯、お使い。まかされるのは雑用です。つらいことも多かったですけど、落語を広めたいという気持ちが強かったのでめげなかったです。1年後、晴れてこん平の弟子にしていただきました」
三平師匠の「笑わせる腕になるまで泣く修業」の言葉を胸に、たい平は落語家の道を歩み始めた。