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香川照之、トヨタCMも番組も降板へ…超サラブレッドが銀座で “性加害” するまで【画像あり】

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2022.09.01 17:16 最終更新日:2022.09.01 17:27

香川照之、トヨタCMも番組も降板へ…超サラブレッドが銀座で “性加害” するまで【画像あり】

高校2年までは理系だった

 

 8月24日に「デイリー新潮」が報じた俳優・香川照之の起こした “性加害” 事件。香川は2019年7月、東京・銀座のクラブでホステスの女性に対して胸を触る、キスをするなどの “性加害” に及び、被害女性がPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っていた、などと報じられている。

 

 香川は事件について謝罪しているものの、世間から “許される” ことはなかったようだ。

 

 

 9月1日、トヨタ自動車は、香川照之が出演するテレビCMの放送を見合わせたと発表した。朝の情報番組『THE TIME,』(TBS系)の金曜MCも降板が決定しており、さらにアリナミン製薬「アリナミンEXプラスα」のCMも取り下げられている。

 父は歌舞伎役者の二代目市川猿翁、母は女優・浜木綿子、しかも東大卒という超サラブレッドはいかにして、“性加害者” になり果てたのかーー。

 

「勉強ができてスポーツ万能」。でも「おっちょこちょい」で、野球のベースを踏み忘れたり、かくし球にひっかかった。これは小学校のころ、同級生が作文で香川の姿を描いたものだ。

 

 香川は小学校から高校まで東京の名門・暁星学園に学んだ。

 

「身長が低くて、よく食べる男。毎年、級長に必ずなっていました。浜さんが教育熱心で、同級生の保護者に『どんな勉強をしてるの?』とか聞いて参考にするほど。本人は教室のいちばん後ろに座り、ふざけたり、先生に冗談を言うことが多かったですね」(同級生)

 

 中高時代にはボクシングが趣味になっていた。

 

「家からビデオカメラを持ってきて、休み時間に友達にボクシングのファイティングポーズを取らせ、香川さんが撮影をすることがありました。きっと、テレビの裏方になるのかなって思っていました」(同)

 

 だが、このころの香川は芸能界とは距離を置いていた。2歳のとき両親が離婚、女手ひとつで育てられたことも影を落としていたのか。かつて本誌の取材に、高校の担任がこう話している。

 

「ご両親が有名ですから、芸能界に行くのかと聞くと『歌舞伎の世界、俳優の世界には一切興味はない』と。文章力がとても優秀だったので、私は物書きになるのではと思っていました。『古文の先生になりたい』と相談を受けたときには、『うちの学校の先生になればいい』と答えました。演出家やプロデューサーになりたいとも話していました」

 

 すべての科目が得意で、中高を通して皆勤賞。フランス大使を招いての卒業式では、学年で最も優秀な生徒に贈られる賞と、フランス賞を授与されたが、「『目立つことは絶対にやりたくない』と代表で登壇するのを拒否したんです。ビックリしましたね」(前出・担任)。

 

 東大の合格発表には、本人より先に浜が駆けつけた。大喜びする浜の姿が、テレビで生放送された。その夜は、お祝いに担任の自宅で徹夜の麻雀大会が開かれた。

 

 香川はのちに受験当時を「特別やることがないから中学でも高校でも勉強はしていました」と振り返っている。しかし、東大に入ると自分は勉強が本当に好きではないと気づき、「本当はあんな大学に入るんじゃなかったと今は思う」と複雑な心境を吐露している。

 

 母はサラリーマンになることを望んだが、大学3年ではテレビの制作会社でアルバイトした。

 

「石井ふく子さんの紹介でADから始めていました。でも、思い描いていた仕事とギャップがあったようで、卒業前には俳優のほうに興味が全面的に移っていたようです」(テレビ局関係者)

 

 結局、選んだのは両親と同じ仕事だった。1988年にテレビ初出演を果たし、1989年にドラマデビュー。Vシネマの主役を務めるなど徐々にステップアップ。1995年にはJALの国際線CAの女性と結婚式を挙げ、恩師とも再会を果たした。

 

 2010年2月に開かれた師の退職を労う会では、「ドラマで殴られるシーンがあったので、『本当に殴られたのか?』と聞くと、『殴ってもらえないと本当の芝居ができない』と話していました。芝居に対する情熱を感じました」(前出・担任)

 

 物心がついて以降、香川は猿翁と会うことはなかった。

 

「高1の遠足で、担任の計らいで猿翁さん(当時は市川猿之助)が出ている歌舞伎を鑑賞しにいきました。演目が終わったときに先生は “サプライズ” として香川さんを舞台に上げ、猿翁さんに花束を渡すことに。でも、香川さんはすごく嫌な顔をしながら渡していたんです」(前出・同級生)

 

 楽屋に行かないのかという周囲の言葉も頑なに拒んだ。

 

 しかし、のちに自ら父の楽屋を訪ねることになる。芸能界で生きることを決めた25歳のころ、意を決して会いにいったのだ。そこで耳にしたのは「あなたは息子ではない」という実の父からの冷徹な言葉だった。

 

 このとき、すでに父には藤間紫さんという女性がいた。しかし、香川は「愛してる、この世に授けてくれてありがとう」と泣きじゃくって答えた。

 

 歌舞伎界との絆が断たれたように見えた香川だが、息子の誕生を機に、父との関係が改善、2011年に九代目市川中車を襲名して歌舞伎俳優に進出し、俳優と歌舞伎役者という二足のわらじを履くことになった。

 

“曲者” とさえ呼ばれる香川だが、取材してみると、悪口や批判はまったく出てこない。それが彼が今、最も忙しい理由にほかならない、と映画会社スタッフは話す。

 

「汚れ役をできるのが大きいです。彼ぐらいのクラスだと、主演しかやらない人が多いなか、脇役でも快く受ける。芝居がうまくて、共演者のなかに自然に入り込める。全体での自身の役柄を正確に把握し、緻密な計算で演技しています」

 

 監督からは演技を評価され、共演者からはムードメーカーとして、仕事のお手本として引っ張りだこ。彼を育てたのは、過酷な撮影体験だった。

 

 1998年に参加した中国映画の『鬼が来た!』では中国の農村に4カ月も滞在。日中戦争で、中国に出兵する日本人兵を演じたが「あれは映画ではなく、戦争そのものだった」と語っている。マイナス10度で、麻袋に入れられたまま山の上から引きずりおろされるシーンなど撮影は熾烈を極め、胃を病んで入院もした。

 

 2009年公開の映画『劔岳 点の記』では雪山にこもり、最長で9時間歩いた。インタビューではこう語っている。

 

「僕は俳優という仕事はマゾヒスティックなものと思っていますし、この撮影でも覚悟していたつもりでした。でも、ここまできついとは……(笑)」

 

 どんなに困難な注文でも文句を言わずに耐え抜く。そんな香川のポリシーを生んだのはやはり “家庭” だった。

 

『犬、走る DOGRACE』などの作品に香川を起用した崔洋一監督も、2010年の本誌取材に、“不幸”な生い立ちが、香川を香川たらしめる要因のひとつだ、と認めている。

 

「話すこと、書くこと、立ち居振舞いはそこらの役者とは味わいが違っていた。自分が家庭において不幸な存在の象徴であるという自覚があったのかもしれません。たぶん、彼の中で “父性” を求めていたのではないかと思うんです。

 

 絵に描いたような優等生なんだけど、同時に彼が抱えている内面は誰もがわからない。彼は何だろう、って思わせる。自分が心がけたり気をつけたりしてなれるもんじゃない。天分だよね」

 

 共演した俳優にも血を受け継いだ何かを感じさせていた。

 

「とくに2002年公開の『刑務所の中』を撮っていたときに感じましたね。いみじくも主役の山﨑努さんが、『本当に香川は、じいさん(三代目市川段四郎)にソックリだ、アイツはもっともっとよくなるよ』と言ってました。山﨑さんも、血は繋がってなくても、俳優魂みたいなものは受け継いでくれるだろうという希望があったと思うんです。予測がつかない演技をする、彼の役者魂なんですよ」(崔監督)

 

 その後、ドラマ『半沢直樹』で大ブレイク、国民的な名優となったのはよく知られた話だ。

 

 業界関係者から絶賛の声しか聞こえてこない香川。

 

 それなのに、いったいなぜ “性加害” を起こしてしまったのか。

 

「成功を重ねるなかで誤った “全能感” に満たされてしまったのでしょう。東大卒で、役者としても大人気。そうしたなか、『なにをしてもかまわない』という感覚が生まれたのではないか。さらに言えば、“父に拒絶された” という寂しさは、どれほど歳を重ねても満たされないものだったのではないでしょうか」(芸能記者)

 

 自粛を経て、初心に戻ることが必要かもしれない。

( SmartFLASH )

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