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小堺一機 甘くなかった芸能界…萩本欽一から厳しい要求も「俺はアガらないやつは信用しない」の金言
エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2023.02.19 11:00 最終更新日:2023.02.19 11:00
東急田園都市線池尻大橋駅近くのビルにあるイタリアレストラン「オステリア・ヴォーノ」。好物のトリッパを味わいながら「メニューを見ているだけで幸せな気持ちになるんです」と話すのは小堺一機。30年以上続いた主演舞台『小堺クンのおすましでSHOW』の打ち上げ会場としても「ヴォーノ」をよく利用していた。
「打ち上げは『本当にステージ終わり?』と思うくらい毎回盛り上がりました。ファイナルから6年たちましたが、お店に来ると今でもあの楽しかったときを思い出します」
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司会者としてはもちろん、バラエティ番組やミュージカル、ドラマなどでさまざまな顔を見せるエンタテイナーの原点は、小学生時代だ。
「僕は小学校を3回転校しているんですよ。なので、いつも転校生。そんな僕に対し母親は、『転校生は1週間が賞味期限。みんながのぞきに来ている間に小堺一機はこういう人というのを出さないと』と言っていました。これを聞いて、ものまねをしたり、みんなに積極的に話しかけたりしたのを覚えています。人と話をするのが好きだったり、すぐ人を笑わせようとするのは、このときから始まっている気がします」
幼少時代はNHKが母体の「東京放送児童合唱団」(現在の「NHK東京児童合唱団」)に所属するなど、芸能界への興味は強かった。
「譜面も読めなかったんですが、歌が好きというだけで入って。でもこれが “大河の一滴” になりました」
小学6年生からは、子供向けの歌番組『歌はともだち』(1968~1977年、NHK)のメンバーに選ばれ、初めてのテレビ出演を経験した。
「同世代の子とグループを組んだりと楽しかったです。
ただ、1年たったら番組が変わるということでやめる方向になって。で、次の番組はどんなだろうとテレビを観てびっくり。僕以外はみんな出ていたんですよ。僕だけがクビでした(笑)」
このことで、テレビは「特別なもの」になった。
「テレビのお仕事というのは特別な人がやるものだと思うようになりました。どれだけウケても仕事にはならないって。その思いは大学に行っても変わらなかったです」
1977年、大学生になっていた小堺は、当時大人気だった素人参加型バラエティ番組『ぎんざNOW!』(1972~1979年、TBS)に出演した。
「友達が勝手にはがきを出したんで、家にオーディションのお知らせが届いたんですよ。まぁ、青春の記念として出演し、卒業後は普通に会社に勤めて宴会部長でもやろうと思っていたんですが、5週勝ち抜いて。そうなると、やっぱり嫌いなわけではないから、本気でやりたいと思うんですよ。父親には怒られましたが」
そのときに思い出したのが、以前、父親から言われた「なんでも中途半端だな」という言葉だった。
「父親には『今、諦めると後悔すると思うから。3年だけやらせてください』とお願いしました。そうしたら『タレントはティッシュペーパーみたいに使い捨てだぞ』と言われたので、『僕はハンカチになります』と返して(笑)。そうやって始めた芸能界で、今に至っています」