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L⇔R・黒沢秀樹の“意外すぎる現在”、兄・健一さんは脳腫瘍で死去「最後に一緒にできればよかった」

エンタメ・アイドルFLASH編集部
記事投稿日:2024.04.27 06:00 最終更新日:2024.04.27 06:35

L⇔R・黒沢秀樹の“意外すぎる現在”、兄・健一さんは脳腫瘍で死去「最後に一緒にできればよかった」

「L⇔Rではデビュー以来、納得するまで妥協せずに録らせていただいたので、まったく後悔がないんです」(黒沢秀樹、写真・久保貴弘)

 

 CDの売り上げ枚数が過去最高を記録し、コンビニや飲食店では有線放送がBGMだった1990年代。僕たちを救ってくれた「名ボーカリスト」のヒット曲誕生秘話!

 

「小さいころ、兄と2人でレコード屋さんごっこをよくやりました」

 

 黒沢秀樹(53)は、そう懐かしそうに話す。

 

 

 1990年に兄の健一さん、木下裕晴(57)とL⇔Rを結成。1991年にデビューすると、1994年には映画『四姉妹物語』の主題歌となった『HELLO,IT’S ME』がスマッシュヒット。1995年に月9ドラマ『僕らに愛を!』(フジテレビ系)の主題歌となった『KNOCK’IN ON YOUR DOOR』がオリコンチャートで1位を獲得し、ミリオンセラーとなった。

 

「兄貴は、子供のころからとにかくレコードが大好きだったんです。そんな兄を見て、祖父が実家の裏にあった質屋で、すごく大きい家具調のステレオを買ってくれて。僕らよりひと回りぐらい上の従兄弟が、レコードを買うたびにそのステレオで聴こうと、やって来るようになりました。その代わりに、いらなくなったレコードを置いて行ってくれたんです」

 

 健一さんと秀樹は2歳違い。兄が5~6歳、秀樹が3~4歳のころから、ビートルズやビーチボーイズを聴くようになった。

 

「まだ、ひらがなも読めないぐらいだったので、盤面を見て『りんごの絵はビートルズ』という感じでレコードを選んでいました(笑)」

 

 高校に入ると、健一さんはギターを買い、バンドを組んで自分で曲作りを始める。そばでそんな姿を見ていた秀樹は、「なんでこの人はこんなことができるんだろうと思った」と笑う。

 

「僕も高校入学後はバンドを始めたんですが、すでにそのころの兄は“コンテスト荒らし”(笑)。どのコンテストに出ても優勝して帰ってきました。のちにL⇔Rの曲としてリリースした曲のなかには、このころに兄が作った曲もあります」

 

 健一さんは18歳で上京。アーティスト育成システムでプロの作曲家として仕事をし、南野陽子や島田奈美に曲を提供していた。そんなある日、健一さんのバンドのギターが病気で倒れ、急遽、秀樹が呼び出されてバンドに加入する。

 

「『ライブが決まってるからお前がやれ』って。僕はまだ高校3年生で、金曜日に授業が終わったら東京へ向かい、週末にライブをこなして月曜の朝に帰ってきて、学校で寝ていました(笑)」

 

 その後しばらく、秀樹がギターを担当していたが、バンドが解散して兄弟2人に。

 

「2人とも、意気消沈していました。ちょうどポール・マッカートニーのソロとしての初来日コンサートがあったときで、兄貴と『ポールのライブを観て、実家へ帰ろう』と話していました」

 

 そんなとき、ファンとしてライブハウスに観に来ていた木下が、3人で一緒にバンドがやりたいと言い出し、強引にスタジオを予約してしまった。

 

「僕らのデモテープを聴いたレコード会社の人は、みんな『こんなマニアックなのは、いくらなんでも古いよ』と言うんです。僕らの音楽なんてウケないんだって思ってる時期でした。でもどうしてもという木下の熱意にほだされて、結成したのがL⇔R。だから木下がいなかったら、L⇔Rは生まれてなかったんです」

 

 ちょうど同じころ、元四人囃子で、プロデューサーの岡井大二から「デモテープを聴かせてほしい」と連絡がある。岡井を通じ、フリッパーズ・ギターなどを世に送り出したプロデューサー、牧村憲一の耳に入った。

 

「牧村さんが、僕たちが『これがいちばんウケないだろう』と思っていた曲を聴いて、『こういう曲が作れるんだったら、どんなポップなことをやってもいい』とおっしゃってくださって。今までの評価とは真逆で、『とにかくお前らはすごい』と評価していただきました。特に兄貴には『これまでの曲でも相当いい曲があるから、やりたいだけやれ』と言ってくださった。岡井さんと牧村さんがいなかったら、L⇔Rというバンドが世に出ることはなかったと思います」

 

 大手企業で、有望な社員として働いていた木下は会社を退社。いっさいライブはやらず、“音先行”で勝負するという牧村の戦略のもと、莫大な予算と時間がL⇔Rに注ぎ込まれた。3人はスタジオに丸1年ほど籠もり、レコーディングに明け暮れた。

 

「僕はレコーディングエンジニアの学校へ通っていたこともあり、レコーディングスタジオに行くこと自体が夢だったんです。当時の僕らは気がヘンになりそうなほど音楽に没頭していて、たったの4小節でも納得がいかないと100回ぐらい録り直し、ついには『体力だけが自慢だ』と言っていたレコーディングエンジニアが、ぶっ倒れてしまうほどでした。ふつうは、時間がないから、予算がないからと諦めてしまい、後悔が残りますよね。でもL⇔R時代の作品は、デビュー以来、『これぐらいでいいんじゃない?』ということはまったくなく、納得するまで妥協せずに録らせていただいたので、まったく後悔がないんです」

 

 1994年にポニーキャニオンに移籍すると、多忙を極める毎日になった。

 

「ポニーキャニオンさんはメディア系の会社なので、CMのタイアップ曲やドラマの主題歌などを持ってきてくださる。でも、そうなるとピュアな音楽の要素と拮抗する部分がどうしても出てきてしまったんです。スケジュールの問題、クライアントの問題もあり、いかに自分たちの魂を守りながらWIN-WINの関係になっていくかはすごく難しいことでした」

 

『KNOCKIN’~』は、オファーがきてからわずか3日ぐらいで、健一が作ったという。

 

「でもどうしても歌詞ができなくて、みんなで仕事半分、休暇半分で、勉強のために苗場スキー場へライブを観にいったんです。僕たちがスキーウエアで浮かれてるあいだ、兄貴は一人で部屋に閉じこもって歌詞を書かなきゃいけない状況でした。だから『KNOCKIN’~』の仮タイトルは『もう苗場なんか行かない』だったんです(笑)」

 

 同曲がトップチャートに輝いてからは、忙しさに拍車がかかっていった。曲が売れればツアーをおこない、新曲を出せばキャンペーンを打つ。音楽雑誌の連載や取材も多く、月に3~4本のレギュラーがあった。

 

「雑誌の写真がカブるわけにはいかない。僕らは背が低いので、スタイリストさんが東京じゅうを衣装探しに駆け回っても足りないぐらい(笑)。『KNOCKIN’~』から活動休止までの2年間は、忙しすぎて記憶がないぐらいでした。でも僕らの基本はスタジオ。曲を作る時間がない、レコーディングをする時間がない……。そのストレスは計り知れないほどでした」

 

 こうして、3人はどんどん追い詰められていった。アルバムの制作中に、ついに健一がこう呟いた。

 

「兄貴が『もうムリだ……』と。子供のころから知ってるから、目を見た瞬間、休ませなくちゃダメだと思いました。やっぱり、天才肌ですごく繊細な人なんです。当時はCDをプレスしていましたから、発売を延期するとなると、工場での作業、営業や宣伝の方々にも迷惑がかかってしまう。でも一度、休止にしなくちゃということで各方面に頭を下げて、一度、休もうということになりました。それでも進めるものは進めないといけない。僕と木下でスタジオでの作業を進めて、アルバムを仕上げました」

 

 こうして完成したのが、L⇔R名義としては最後のオリジナルアルバムとなる『Doubt』(1997年)である。その後、それぞれがソロ活動に移行する。L⇔Rは活動休止状態のまま、時が過ぎていった。

 

「どこに行っても『もう一回やらないの?』とよく聞かれました。兄貴にそれを話すと『今じゃない』と。『今じゃないなら、いつなんだよ』というような会話を何度もしました。僕らも年を重ねて、仕事ではなく家族のことで会うことも増えていって。あるとき、『もういい加減、解散するならするで、はっきり決めたほうがいいよ。ファンの方はいつまでも待ってくれているから』という話をしたら、『そうだね、もう一回やりたいとは思ってる。ちゃんと考えようか』と。兄貴が前向きに考えてくれたことはなかったから、本当に驚いたんですけど、『とりあえず曲作りをしようか』という話でまとまったんです。でも、その直後に病気が判明しました」

 

 2016年12月5日、健一は脳腫瘍のため永眠。享年48。二度とL⇔Rが復活することはなくなった。秀樹は当時を振り返り、こう話す。

 

「あのときいちばん辛かったのは、兄貴の病気の話を誰にもできなかったこと。病気を公表していなかったので、誰とも気持ちを分かち合うことができなかったんです。僕も相当、メンタルをやられました」

 

 もうひとつ、秀樹を苦しめたのは、兄貴ともう一度一緒に曲を作るという望みが潰えてしまったことだった。

 

「何かしら最後に一緒にできればよかったんですけど、それが本当に残念というか……。でも、その後にいろいろと整理をしていたら、兄貴が一番だけ歌を遺していたデモ音源が出てきたんです。作詞もまだ途中で、『あとはお前にまかせるわ』と言われていたものでした。それに僕が歌を重ねて『I Need You Loving』が完成したんです。兄貴が不在で作った、新曲のようなものですよね」

 

 当時、秀樹の頭にあったのは、ファンに対しての「ありがとう」と「ごめんなさい」。ファンを裏切りたくなかったという気持ちが強かったという。

 

「僕らはふつうの兄弟のように、仲がよかった時期も、悪かった時期もありました。それでも根底には、“音楽で繋がっている”という思いがあったんです。一応、兄貴と一緒に作ったといえる最後の作品が作れたのは、すごくよかったと思っています」

 

 健一が遺した作りかけの音源を、親しい関係者たちで作り上げたアルバム『HEAR ME NOW』(2017)は、健一さんのオフィシャルホームページで限定販売された(すでに販売終了)。現在は、各配信サービスで聴くことができる。

 

 そして、健一さんが世を去ったのと同じころ、秀樹も結婚、子供の誕生という激動の時期を過ごす。ソロ活動を続けながら、彼にはある思いが芽生えていた。

 

「以前から心理学に興味を持っていたのですが、子供が生まれてWEBで子育てのコラムを書いているうちに(『できれば楽しく育てたい』シリーズとして電子書籍化)、どんどんその思いが強くなっていって。ちょうどコロナで活動ができなかったこともあって、心理学の勉強を始めたんです。オンラインで講義を受けて100時間ほどスクーリングも受けました。それで、産業カウンセラーの資格を取得しました。やりだすと凝っちゃう性格なんですよね(笑)。2024年からは、アーティストやクリエイターのためのオンラインカウンセリングルームを立ち上げる予定です」

 

 こうした活動の裏には、秀樹のある思いがある。

 

「今思うと、僕たちは『KNOCKIN’~』でトップを獲得した後、どこへ向かい、どう活動していくのか。自分たちが納得のいく方向性を決めて導いてくれる人がいなかった。“イケイケドンドン”のときは誰も止められないし、僕たちも自分たちのことだけを考えて突っ走ってしまっていました。スケジュールの管理もできず、自分たちで自分たちの首を締めてしまっていました。長続きさせるためには、止めなきゃいけないときもある。マネジメントというのは、非常に大事なんだなって思うんです。“たられば”ですけど、長期的な視点で僕たちの方向性を導いてくれる人がいたら、もしかしたら違ってたのかなって思います」

 

 自分たちのような思いをしてる人の手助けをしたい、力になりたい。彼が心理学に興味を持ったのは、そんな思いがあったからからなのだろう。

 

「最近は自主的育休中ですが、住んでいる東京都世田谷区で、NPO団体の方と一緒に子育て支援をしたり、ミュージシャン仲間の川久保秀一さんからのお声がけで、多摩ニュータウンで子どもたち向けのイベントを開催し、『団地の歌』を作ったりしています。子育てはわからないことだらけで楽しいですよ」

 

 そして最後にこう振り返った。

 

「L⇔Rの活動は、僕のキャリアのなかでたくさんの人と知り合うきっかけを作ってくれました。今でもずっとL⇔Rを好きだと言ってくれるファンが少なからずいて、兄が亡くなってより一層、“エバーグリーン”なものとして、一生聴き続けると言ってくれるファンの方もいます。そのなかに僕がいられたことは、神様の贈りもののような時間でした。今後は自分が経験させてもらったことを、皆さんにお返ししていきたいです」

 

 そう話す秀樹の表情は、とても柔らかかった。

 

くろさわひでき
1970年生まれ 茨城県出身 1991年にデビュー。活動休止後はソロ活動中。育児のブログをまとめた書籍『できれば楽しく育てたい ミュージシャンのクリエイティブ育児ノート』(ホテル暴風雨)が2024年5月初旬に発売予定。ハイトーンボイスユニット「クロソワン」の相方、マエソワヒロユキとの育談配信『そだて、しあわせくん!』を音声配信アプリ「stand.FM」で月曜~木曜に配信中。7月7日には渋谷gee-ge(東京)にて番組のトーク&ライブを開催予定。

( 週刊FLASH 2024年5月7日・14日合併号 )

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