
「俺、ひとりになった感覚がないもん」と萩本欽一(写真・木村哲夫)
長年にわたり、第一線で刺激や笑いを届けてきた表現者たち。その胸には、愛する人と過ごした大切な時間が、色あせずに残っている。萩本欽一が、2020年に82歳で亡くした妻・澄子さんとの思い出を語る(以下、萩本の語り)。
スミちゃんはね、浅草の東洋劇場のトップの踊り子だった。俺は、卵からかえったばかりのどんじり。10人ほどいる踊り子さんたちからは、「坊や」って呼ばれてた。
先輩芸人でも、女のコに声をかけたらクビになる世界でね。初対面の印象を聞かれてもわかんない。踊り子さんたちが目の前を通るときは、こっちは頭下げてっからさ。俺はこのとき、高校を卒業したばかりの18歳。
3年ほどたったころ、東八郎さんに「おい、欽坊。お前もそろそろ、地方で武者修行してこい!」って言われて、年上の後輩がさ、スミちゃんに相談したんだよ。「送別会やってあげて」って。それで、3人で鯨料理の店に行くことになった。でも俺、スミちゃんの名前さえ聞けなくってさ。
で、店を出るとき、「お姉さん、ありがとうございました」って頭を下げる俺に、自分のネックレスを外して、ポーンと投げたのよ。「困ったら質屋にでも入れな」って。
惚れるとかそういうんじゃない。かっこいいなと思ったね。そのもらったネックレスはさ、地方に行ってつらいときとか、グッと握りしめて、話しかけたりしてたのよ。「頑張るからね」「恩返しするからね」って。でもさ、いつのまにか失くしちゃった。ずっと、ズボンに入れてたから。洗濯屋かなぁ。
半年して、地方から戻って、舞台に立つようになったある日、家具も何もない3畳のアパートに帰ったら、そこにテレビがあったのよ。階下の豆腐屋さんが大家だったんだけど、「女の人が来て、テレビを置いてった」って言うんだよ。
女の人なんてスミちゃん以外、心当たりがないから、劇場ですれ違ったときに聞いたら、「いずれテレビに出るようになるんだから。観といたほうがいいよ」っつって。またしばらくして、タンスが入ってたことがあったし、帰ってきたら、3畳から4畳に部屋が移っていたこともあった。ぜんぶ「私が払うから」って。変な人だなぁと思ってた。
![Smart FLASH[光文社週刊誌]](https://smart-flash.jp/wp-content/themes/original/img/common/logo.png)







