ぼくが自分の子の発達障害に気づくのは早くもなく遅くもなくといったところだった。今、思い返してみれば、それらしい兆候はあったと思うのだ。
いつまでもハイハイのままで、なかなか立たないなあとか、やっと立ったと思ったら妙なつま先立ちをしているなあとか、他の子はそろそろしゃべり出しているのに喃語すら出てこないなあとか。
【関連記事:日米で異なる「子育て事情」日本の育児書はソ連の影響下にあった!】
そんなに予兆があるなら気づこうよ、と指摘されると一言もないが、悪条件もあるにはあった。ぼくの子は双子だが、姉のほうが、異様にゆっくりさんだったのだ。
他の子たちと比べると、明らかに色々な面で遅れていても、「姉と比べると、まぁ……だいたい一緒だよなあ」となる。まさか2人とも障害があったりするわけじゃないだろうし、と油断したのだ。
子どもの発達障害に気づき、ぼくは素人なりに障害のことをよく知ろうと思い、入門書や専門書、各種法令やハンドブックに至るまで、大量の文献を読みあさった。
いったい自閉症(自閉症スペクトラム障害)とは何だろうか。自閉症の子は1人でいるとき、自閉症と判別できないことが多い。しかし、人間の集団に放り込むと、ぽろぽろと違和感が出てくる。
みんながあるものに注目しているとき、全然そこに注目しない。先生に声をかけられても、反応しない。多くの子が集合しているのに、平然と単独行動をする。ほとんどの子が笑う状況で、何がおかしいのか理解できない。
ぼく自身は子ども時代、赤信号にまったく注目していなくて、本を読んだままふらっと国道を横断してしまい、まわりの人たちが悲鳴を上げているのにもまったく気づかず死にかけたことがあるし、僕の子どもも魚を追って(自閉症ではありがちだが、魚が好きだったのだ)足のつかない湖にずんずん入っていったことがある。
好きなことをやっているときには、たぶん蹴飛ばしたりしても気づかない。定型発達の乳児は、親から離れると不安そうになって泣いたりするが、ぼくの子はまったく気にしなかった。確実に親より魚のほうが好きである。
自分の好きなものには徹底的に執着するが、それ以外のものには極めて無関心なのだ。このとき、「それ以外のもの」には当然「他の人」が含まれるし、時には自分の命も含まれる。
面白いのは、逆さバイバイやクレーン現象かもしれない。いや、渦中の人間にとっては面白いどころではないのだが。
逆さバイバイは、手のひらを自分に向けてするバイバイである。ふつうのバイバイとは、手のひらの向きが逆になっている。文章にすると「ふーん」だが、最初に目にしたときは、けっこう異様でぞっとした。周囲に聞くと、自分も子どもの頃やっていたらしいのだが。
子どものバイバイは、大人を模倣して始まるわけだが、逆さバイバイは真似としては正しいと思うのだ。だって、大人のバイバイを見たら、みんな手のひらは子どものほうを向いているのだから。それをそのまま模倣したら、自分に手のひらを向けてバイバイをする「逆さバイバイ」になる。
でも、経験的に明らかなように、これはふつうのバイバイではない。もう遠い記憶だが、定型発達の子は生後6か月くらいでも、ふつうのバイバイができていたように思う。このくらいの月齢でも、自己と他者の区別がきちんとついていて、他者の真似をするのであれば、手のひらはひっくり返すべきだと理解できているわけである。
そう、自閉症の子は、他者への興味のなさ故に、自己と他者の区別が曖昧なのではないかと思う。
よく「自閉症の子は、他者の気持ちを想像できない」というが、近くで観察していていると、想像する能力がないというよりは、「自己と他者なんて同じだろう?」程度に思っていて、他者の気持ちを想像する能力を使用しないように見えるのである。
クレーン現象も、その文脈で説明できるのではないかと思う。自閉症の子は、手先が不器用な子が多いので、思い通りにならない自分の手のかわりに、よく機能する他人の手を勝手に使ってしまうのである。
他人の手を動かす様がクレーンに似ているので、クレーン現象と呼ぶ。ぼくは、大嫌いなキアゲハの幼虫(子どもは大好きなのだ)をクレーン現象でつかまされそうになって、思わず車道に飛びの退いたことがある。危険な現象である。
いい説明かどうかはわからないけれど、自閉症のわからなさって、はじめて読む分野の専門書に似ていると思う。読み始めはどうにもちんぷんかんぷんで、これが同じ人間の言葉なのかとすら疑い、先に進む自信を失う。
しかし、その分野の中では書いてある言葉にも順序にも意味があって、習熟するとちゃんと理解できるようになる。
ただ、勘違いして欲しくないのは、逆さバイバイやクレーン現象をしていたから、すぐ自閉症というわけではないことだ。
定型発達の子だって、そのくらいすることはある。誰でも自閉症的な要素を持っているし、自閉症の子も定型的な要素を持っている。両者は連続していて、どこからを定型、どこからを障害と線引きすることはとても難しい。だからスペクトラム(連続体)と呼ぶようになったのだ。
※
以上、岡嶋裕史氏の新刊『大学教授、発達障害の子を育てる』(光文社新書)をもとに再構成しました。自閉スペクトラム症の息子と、自分もその傾向があった父親の日常生活奮闘記。
●『大学教授、発達障害の子を育てる』詳細はこちら