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「ドイツ帝国」ビスマルクへの心酔ぶりが日本を富国強兵に導いた

ライフ・マネー 投稿日:2021.06.10 16:00FLASH編集部

「ドイツ帝国」ビスマルクへの心酔ぶりが日本を富国強兵に導いた

 

 1871年1月、プロイセン軍はヴェルサイユ宮殿を占領し、ブルボン朝ルイ14世太陽王の栄華の象徴「鏡の間」で、ドイツ帝国皇帝の即位式を行うことになる。これが「ドイツ第二帝国」(1871~1918年)だ。

 

 ちなみにドイツが帝政をとったという意味で、第一帝国は「神聖ローマ帝国」(962~1806年)。そしてヒトラーのナチス国家を俗に「第三帝国」(1933~1945年)と呼ぶことがある。

 

 

 ドイツ帝国は皇帝を戴く立憲君主制国家であり、かつプロイセンを中心とした25の邦国から構成された連邦国家となる。諸邦の代表による連邦貴族院、及び成人男子による普通選挙による帝国議会も有した。

 

 とはいえ実質的には、国土面積と人口が5分の3を占めるプロイセンがドイツ諸邦を吸収合併したようなものだから、皇帝位はホーエンツォレルン家が代々継承してゆくことに誰も異存はなく、プロイセン宰相がそのままドイツ帝国宰相となった。ほぼビスマルク独裁といった態である。

 

 ちょうどその頃の日本は明治維新期。近代国家としての黎明期だ。後進性を自覚し、西洋文明を吸収する意欲には目覚ましいものがあった。

 

 明治4年(1871年)の年末から明治6年(1873年)にわたるおよそ2年、政府は岩倉具視を団長とする視察団を欧米へ派遣した。使節、随員、留学生など、参加者150人を超える大がかりなもので、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳、木戸孝允らが参加した。目的は各国への国書提出、江戸時代に結んだ不平等条約改正の予備交渉、そして先進国の見聞。

 

 船旅なので移動時間は長い。それでもまずはアメリカに7カ月滞在した。

 

 ヨーロッパはイギリス(ヴィクトリア女王に謁見)、イタリア(ベスビオ火山見物)、オーストリア(万博視察)、フランス、ロシアなど12カ国を回った。もちろんドイツもだ。ドイツには3週間滞在し、最新の工場見学の他、ビスマルクの官邸晩餐会に招待されている。

 

 一君主国にすぎなかったプロイセンが短期間に、それもほぼビスマルク一人の剛腕によって統一帝国にのし上がったという事実は、使節たちを興奮させずにおかなかった。ビスマルクも遠いアジアからの若い訪問者たちにアドバイスして曰く、列強の植民地にならぬためには富国強兵に励み、独立を守らねばならない。

 

 感銘を受けた大久保は、「新興国家ヲ経営スルニハ、ビスマルク侯ノ如クデアルベシ、我、大イニウナズク」と書いている。他のアジア諸国と異なり、日本が一度も植民地にならなかったのは、ドイツ帝国誕生の華々しい時期に居合わせ、ビスマルクに心酔したことも大きかったのではないか。

 

 日本陸軍の軍制に関しても、最初はフランス式を予定していたのをプロイセン式に改め、メッケル参謀少佐を日本陸軍大学校教授として招聘した。3年間に及ぶメッケルの教えは、日清・日露戦争の勝利へと日本を導くことになったのは、よく知られるとおりだ。

 

 

 以上、中野京子氏の新刊『名画で読み解く プロイセン王家12の物語』(光文社新書)をもとに再構成しました。フリードリヒ大王とビスマルクという2人の傑物を生んだプロイセンの歴史を名画とともに読み解きます。

 

●『名画で読み解く プロイセン王家12の物語』詳細はこちら

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