ライフ・マネー
疫病が引き起こした社会崩壊…『ペスト』で知る錯乱とパニックの歴史
ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2022.02.25 11:00 最終更新日:2022.02.25 11:00
2019年に発生した新型コロナウイルスのパンデミック。疫病が蔓延すると、それまで楽しみの場であったレストランや観光地が、とたんにリスクに満ちた危険な場に変身します。あるいは、発病したとたん、ふつうならば難なくできたことに多大な困難が生じるのです。
かつてパンデミックを引き起こしたペストで、社会にどのような変容が起きたのか、振り返ってみましょう。
【関連記事:コピーライター直伝!自分を印象づけるための「ジブンキャッチ」のつくり方】
ペストそのものを本格的にテーマとした最初の長編小説は、ダニエル・デフォーが1722年に刊行した『ペスト』です。1665年、ロンドンにおけるペスト大流行を題材とした『ペスト』は、ジャーナリスティックな記録文学の体裁で書かれたフィクションです(原題は『疫病の年の日誌』A Journal of the Plague Year)。
疫病の発生から終息に到るまでをこれほど克明に記した文学は、ごく稀です。
致死率の高い疫病であるペストが、ヨーロッパの死生観に大きな影響を与えたことは明らかです。いつなんどきペストに襲われるか分からないという恐怖は、「メメント・モリ」(死を思え)というメッセージに説得力を与えます。
それとともに、この恐るべき疫病にどう実務的に対処するかは、政治の課題にもなりました。1720年にフランスのマルセイユでペストが流行したことをきっかけにして、デフォーはペスト対策のパンフレットを1722年に刊行します。『ペスト』はそれに続く作品なのです。
1660年頃に生まれたデフォー自身は、1665年のペストを身近で知っていたと主張しています。ただ、伝記作家のジェームズ・サザランドも言うように、それを真に受けてよいかは疑問です。
もともとプロテスタントの家に生まれたデフォーは、イングランド国王ウィリアム三世を讃えるパンフレット作家であり、秘密諜報員のような活動をした時期さえありますから、『ペスト』についても忠実な記録と考えるのは早計でしょう。
まるで事実であるかのように虚構を語ること――それがデフォーの開拓した近代のリアリズムの発端にあったことは、見逃されるべきではありません。
■信用の崩壊、社会の自殺
デフォーの関心事は、悪疫に支配されたロンドンの混乱にありました(もともと彼は災害に強い関心を抱いており、1703年のイギリス史上最悪の暴風雨についてもエッセイと報告書を残しています)。『ペスト』は商人の「H・F」という一人の記録者の立場から、ロンドンの惨状を逐一報告しています。
デフォーの記述の独創性は、ペストが大都市を直撃したときどうなるかを、事細かに再現してみせたところにあります。
折しも感染拡大の初期の時点で、ロンドンの人口は激増しており、そのことが混乱に拍車をかけました。都市の住民は統制のとれない巨大な群れとなって「変な妄想」の虜となり、怪しげな予言をするインチキ占星術師や、得体の知れない薬を売りさばく詐欺師が跋扈するようになります。
ペストは何が正しい情報かを保証するシステムそのものを崩壊させ、人間をいっそう愚かしい存在にしてしまったのです。
なかでも、死の恐怖を煽るばかりの牧師について記すH・Fの筆致は、実に辛辣です。
「悪いことは重なるものである。牧師たちに脅かされた市民たちは、すっかり度を失ってしまって、次から次へと愚にもつかない、たちの悪い占い事に頼るようになっていった」
すでに古代のトゥキュディデスやルクレティウスは、疫病が神の権威を引きずりおろすさまを克明に描いていました。デフォーもそのテーマを受け継いで宗教の凋落に言及しつつ、ペストの到来を「信用の崩壊」と重ねあわせたのです。
それはいわば社会の自殺です。『ペスト』を特徴づけるのは、疫病そのものの恐ろしさ以上に、錯乱とパニックに陥った集団の自己破壊のありさまです。ペスト患者を葬る巨大な穴をめぐるエピソードは、きわめて象徴的です。
《このような穴に衆人が近づくのを禁ずる厳重な法令が出ていたが、それはもっぱら病気の感染を防ぐのを主眼としていた。しかし、時日がたつにつれて、この法令はいっそう必要なものになってきた。
なぜなら、病気に冒された人間で、死期が近づき、そのうえ精神錯乱をきたした者たちが、毛布とか膝掛けとかをまとったまま穴のところに駆けつけ、いきなり身を投じて、いわば、われとわが身を葬るからであった》
仮にこれが誇張された記録だとしても、この自己破壊の光景には『ペスト』の思想そのものが凝縮されています。デフォーの興味は終始一貫して、ペストがいかに無知と狂信をエスカレートさせるかに向けられています。
《人間の心は、恐怖というものに一度とりつかれると、理屈だけではどうにもならないものである》
デフォーにとって、ペストは集団の心を暴走させ、社会を自滅へと導く疫病です。それはペストの流行がようやく下火になった時期も変わりません。ロンドン市民は無謀にも、すでに自分たちが疫病から免疫になったと思い込み、対人の接触を性急に再開して、感染を広げてしまいます。
《病毒はすべて空気中にある、患者から健康者への伝染などというものはないといった、例の考え方が再び勢力をもりかえした。こんなでたらめな考えが再び世人のあいだに幅をきかせると、それに禍いされて、病気であろうがなかろうが、相手かまわずいろいろな人との往来が行なわれた》
この小説は最初から最後まで、人間の愚かさを拡大する鏡としてペストを描き出していたのです。
※
以上、福嶋亮大氏の新刊『感染症としての文学と哲学』(光文社新書)をもとに再構成しました。病気とともに生きてきた人間の一側面を、文芸批評家が鮮やかに切り取ります。
●『感染症としての文学と哲学』詳細はこちら
( SmartFLASH )