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100歳で現役の女性曲師 “波乱万丈” の人生「東京大空襲で持ちだしたのは三味線だけ」

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2022.08.30 16:00 最終更新日:2022.08.31 14:17

100歳で現役の女性曲師 “波乱万丈” の人生「東京大空襲で持ちだしたのは三味線だけ」

 

 玉川祐子さんは、2022年10月1日で100歳になる。現役の曲師である。曲師とは浪曲の三味線を弾く仕事だ。浪曲は講談・落語と並ぶ伝統話芸の一つとされているが、他の二つと決定的に違うところがある。語りを担当する浪曲師と、三味線の曲師の2人で作り上げる芸という点だ。

 

 2015年に夫でもあった玉川桃太郎さんが亡くなるまでは、2人でコンビを組んでいた。浪曲では相三味線という。大事な存在を失ってしまったが祐子さんご本人は全然衰えずに元気で、今は若手の港家小そめさんの三味線を弾いている。

 

 

 もともと浪曲師になりたかった祐子さんが、この世界に入ったのは17歳のときだった。浅草で住み込みの内弟子になった。お師匠さんは鈴木照子といって、祐子さんよりも3歳下だった。天才少女として、絶大な人気があった方なのだ。

 

 地方から出てきて何も知らない少女は、天下の繁華街である浅草で、しかもスターの家で浪曲の世界で生きるための修業生活を開始した。

 

 入門の翌年、1941年1月に、祐子さんは初舞台の機会を与えられる。つけてもらった名前は鈴木照千代である。舞台は三ノ輪にあった三友亭という寄席だったそうだ。

 

 晴れてデビューを果たした祐子さんだったが、修業にはまだまだその先があった。浪曲師から曲師、つまり三味線弾きに転向するように申し渡されたのである。

 

「鈴木照子には女弟子が3人できたんだけど、私だけが声が硬かったんですよ。ゴロ(こぶし)が回らないんです。声が金にならないから三味線弾きになれよと言われた。自分としては浪曲師でやりたかったんだけどしょうがない。駄目って言うんだから」

 

 祐子さんが最初三味線を教わったのは、浪曲師・春日清鶴の奥さんだった。しばらくの間は浪曲師と曲師、二足のわらじを履き続けた祐子さんだったが、次第に後者の比重が大きくなっていく。一年半くらいはその状態が続いたが、やがて需要の多い曲師一本で行かざるを得なくなった。

 

「『りよ(祐子さんの本名)、おまえが上手になって、うちの先生の三味線を弾くのはおまえなんだよ』とお母さんには言われましたね。どうにか弾くようになったら、三味線はどこでも足りないから『照千代さん、貸してください、貸してください』ってあちこちから言われるようになった」

 

 浪曲は三味線なしでは成立しない芸能である。現在でもそうだが、いつでも曲師不足の状態にある。だから祐子さんのような新米曲師でも、少しでも三味線の調子が取れるようになればあちこちから声がかかるようになる。

 

 師匠の鈴木照子が属し、祐子さんもその末席にいた浪花家興行社は、浪曲を手がけていた興行会社では最大手である。東京の浪曲師だけではなく、関西からも大物を呼び、全国巡業を手がけていた。

 

 戦後、力道山によって確立されたプロレスや、美空ひばりなどの人気者を生んだ歌謡曲の興行は、浪曲の巡業方式を参考にして作られている。地方のプロモーターも同じだから、初めは浪曲をやっていた業者が、後に他の興行もやるようになっていったのだ。

 

 伝統話芸としてひとくくりにされる講談や落語は、この興行システムに乗らなかった。基本的に大きな会場の芸ではないということもあるだろう。歌謡ショーの要素もある浪曲だけが、娯楽を求める地方のお客さんに応えることができたのである。

 

 祐子さんもお声がかかれば巡業の旅に加わった。1945年の早春、祐子さんは天津羽衣一座に参加して東北を巡業して歩いている。

 

「ずっと歩きました。釜石からずっと弘前のほうまで行ったんですけど、八戸では艦砲射撃を喰った」

 

 東北地方を歩き回った後、祐子さんは3月9日に自宅に戻った。まさにその深夜、かつてないほどの大規模な空襲に見舞われたのである。東京大空襲だ。

 

「あのときは、新橋の5丁目まで焼けてきた。住んでたところは6丁目だから、うちはなんともなかった。でも危ないと思ったから、逃げましたよ。それこそ何も考えない。三味線だけは生命だと思ったから、それだけ持ってタッタタッタ逃げたね。

 

 空襲のあと浅草行ったらね、みんなこうやって死んでんだよ、ずーっと。今の松屋の横にみんなこうやって、ズラーッと死んでた。新橋から歩いて見に行ったの。

 

 妹弟子は駒形にいて、火の中を逃げたから髪の毛がみんな焼けちゃってね。私は助かったけど、もう東京にはいられないっつって、旦那の実家がある埼玉県の深谷に疎開したの」

 

 当時の深谷には、落語家の故・立川談志も疎開していたことで有名だ。祐子さんが移り住んだのは大里郡明戸村で、1955年に合併して深谷市の一部になった。その地で終戦を迎え、以降1963年まで暮らすことになる。

 

 戦後は名前も、師匠からもらった鈴木照千代ではなくて本名の高野りよを名乗った(1975年、りよさんは再婚を機に芸名を本名から玉川祐子に改めた)。

 

 師匠の鈴木照子は戦後病気がちで、舞台には立たなくなっている。1950年11月16日にNHKラジオで「瞼の母」を演じているはずなのだが、それ以降は公共放送に出演した形跡もない。祐子さんが名前を返上したのもその影響があったのだろうか。

 

「今考えてみれば師匠あってのあれだから、感謝ですよ。聞かれれば『三味線弾きになって今日まで来ることができて、やはり師匠には感謝ですね』って言葉もパッと出るよ。だからやっぱり、感謝して喜んでることをさ、死ぬまで続けたいと思ってるよ」

 

 鈴木照子は年号が昭和から平成に代わった1989年3月16日に、64歳で亡くなった。鈴木家の墓はかつての住まいからほど近い西浅草2丁目の日輪寺にある。今でも祐子さんは、恩師の墓参を欠かさずに続けている。

 

 

 以上、玉川祐子氏の新刊『100歳で現役!女性曲師の波瀾万丈人生』(聞き手・杉江松恋/光文社)をもとに再構成しました。14歳で奉公に出され、浪曲師に憧れ17歳で上京・入門、18歳で初舞台。100歳を迎える玉川祐子師匠が人生を語ります。

 

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( SmartFLASH )

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