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アフガニスタンの “親日化” に貢献した2人の日本人「中村哲」「緒方貞子」

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2023.07.28 11:00 最終更新日:2023.07.28 11:00

アフガニスタンの “親日化” に貢献した2人の日本人「中村哲」「緒方貞子」

アフガニスタンでの中村哲(写真:AP/アフロ)

 

 アフガニスタン人の間では親日感情が強い傾向がある。日本とアフガニスタンとの間に良好な関係が築かれている背景として、2人の日本人に触れなければならない。これら偉人が残した業績が、アフガニスタンにおける日本全体に対する評判の向上につながっているからだ。

 

 1人目は、2019年12月に東部ナンガルハール州で凶弾に倒れた、中村哲医師である。中村哲医師は1980年代初頭、日本キリスト教海外医療協力会からの声がけにより、パキスタン北西部のペシャーワルでの仕事を始めた。同地への赴任に伴い、1983年9月に発足させたのが、ペシャワール会である。

 

 

 当初は、中村哲医師はハンセン病患者の治療に当たっていた。この時、パキスタンの国境の西側アフガニスタンでは、ソ連の侵攻に伴う戦闘が続いており、アフガニスタン難民への医療活動は喫緊の課題となっていた。そうした政治的状況の影響もあり、中村哲医師は1991年から、アフガニスタン東部ナンガルハール州のダラエヌール渓谷に診療所開設の準備を始め、アフガニスタンでの医療活動を展開することとなった。

 

 しかし、戦争により国土が荒廃したアフガニスタンでは、食べ物不足で栄養失調になり、抵抗力が落ちた中で汚水を口にして感染症にかかった子どもを抱えた母親が、頻繁に診療所を訪れるようになった。中村哲医師は、アフガニスタン人医師の進言を受け入れ、自ら率先して清潔な飲料水の確保に乗り出した。こうして始められた東部での井戸掘り活動はその後も続き、結局、2006年までには約1600カ所で井戸が掘られ、住民の生活の建て直しと定住化に成功した(中村『天、共に在り』、88頁)。

 

 それでも、清潔な飲料水があるだけでは、農業の復興には不充分である。中村哲医師は2003年、干ばつが進む中、農村の復興を目指して、灌漑用水路の建設に着手することとなる。暴れ川である大河川クナル川から取水し、農業用地に供給する灌漑用水事業が始められた。

 

 ペシャワール会の灌漑用水事業では、日本古来の伝統技術が活かされている。福岡県に山田堰と呼ばれる斜め堰があり、暴れ川である筑後川から取水することを可能にした。中村哲医師は、地図を見ながら、この山田堰が、ペシャワール会が取り組んでいる取水口と地形によく似ていると気づいた。この技術の導入が、東部ナンガルハールの農村復興を成功させる鍵となった。

 

 また、中村哲医師は、仮に用水路が自然災害で破損したとしても、地元民が自分たちで維持補修できるよう、蛇籠工と柳枝工という技術を採用した。蛇籠とは、金属でできた枠組みに石を積み上げる護岸の用具で、これであればアフガニスタンの地元民でも補修することができた。また、蛇籠の背面に柳の木を植えることで、根が蛇籠の中の石の隙間に入り込み、さらに強靭になる。

 

 開発援助の世界では、往々にして最先端技術を開発途上国に導入したはいいが、故障した際に部品を海外から調達しなければならないといった失敗例が報告される。中村哲医師は、アフガニスタン人が主体性を持ち、技術的にもそれを維持管理できる持続可能な体制をつくったのだ。これによって、草木一本生えなかったガンベリ砂漠に緑が戻り、パキスタンに避難した住民たちも村に戻り、農業にいそしむ生活を取り戻した。

 

 2019年12月、中村哲医師は武装勢力に銃撃され、帰らぬ人となった。アフガニスタンからの衝撃的なニュースに、日本国内は騒然となった。多くのアフガニスタン人が、中村哲医師の家族と日本国民に弔意とお見舞いを伝えた。今なお、中村哲医師の活動は、アフガニスタンの人々に恩恵を与え、生きる力を与えている。そして、日本人の私もそのことから裨益している。中村哲医師が残したものは、とてつもなく大きい。

 

 もう1人の偉人は、1991年から10年間、国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子氏である。冷戦が終結した当時、国家間紛争の脅威は低減した一方で、民族、宗教、社会的要因を背景とした国内紛争が次々と火を噴き始めていた。こうした紛争の影響を最も受けたのが、罪のない一般市民であり、多くの人々が難民として移動を強いられた。

 

 その当時、難民条約によって、難民は「国境の外に出てきた人」と定義されていた。しかし、実際には、国内に留まりながらも戦禍や迫害から逃れる大量の人々が発生していた。こうした「国境から出てきていない人々」を、UNHCRは保護・支援できるのだろうか。

 

 緒方貞子氏は困難に直面しながらも、2003年のイラク戦争開戦時、イラク国内にいたクルド難民を救済するべく、こうした人々の支援に当たる画期的決定を下した。緒方貞子氏は、自身の著書において「私の判断の拠り所となったものは、ただひとつ、彼らを『救わなければならない』ということであった。この基本原則(プリンシプル)を守るために、私は行動規範(ルール)を変えることにした」と述べている(緒方『私の仕事』、13頁)。

 

 さらに、同氏は、アフガニスタンの復興支援を牽引する役割を担った点が特筆される。1990年代、ソ連侵攻に伴って大量のアフガニスタン難民が出現していたが、諸外国の関心は湾岸戦争やアフリカやヨーロッパの民族紛争に移り、アフガニスタン問題は忘れられようとしていた。

 

「国際社会がアフガニスタンを見捨てた」との思いを有していた緒方貞子氏は、アフガニスタン支援総理特別代表に任命され、日本政府代表としてアフガニスタンの戦後復興を率いていく役割を担った。日本が、民生支援分野で大規模なアフガニスタン支援を行うことができた背景には、緒方貞子氏の過去の教訓を踏まえた熱意も大きな影響を与えたのだ。

 

 

 以上、青木健太氏の新刊『アフガニスタンの素顔~「文明の十字路」の肖像』(光文社新書)を元に再構成しました。激変するアフガニスタン社会を、中東政治の研究者が政治面、歴史面、文化面から詳細にレポートします。

 

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