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葛飾北斎も愛用した「青色」の物語…フランスでは「パステル」による栄華が100年続くことに

ライフ・マネーFLASH編集部
記事投稿日:2024.06.29 11:00 最終更新日:2024.06.29 11:00

葛飾北斎も愛用した「青色」の物語…フランスでは「パステル」による栄華が100年続くことに

写真:AP/アフロ

 

 古来、西洋では青色が珍重された。絵画に用いられる最も美しい青色はラピスラズリを砕いて作られたが、この半貴石は紀元前の頃よりはるかアフガニスタンから運ばれていたため、非常に高価だった。濃く深い紺色のなかに、黄鉄鉱の微細な粒子がまるで金のように輝く。

 

 それは夜空に煌めく星々をも思わせ、画家たちと観る者を魅了した。その稀少性と運搬にかかるコストから、一時期は同じ重さの金の倍もの値段で取り引きされた。

 

 面白いもので、高価なことがその色の高貴さのイメージに直結するため、聖母マリアのドレスが常に紺色である要因のひとつとなっている。

 

 このあたり、東洋で紫色が高貴な色とされた事情とよく似ている。特に発色の良い紫である貝紫は、古くはビザンチンから中国にもたらされていた。稀少性が高いこの色は、東洋の各地域で高貴なイメージを獲得し、日本でも聖徳太子が制定した冠位十二階の最上位の冠には紫色が用いられた。

 

 こうした理由により、布を染める青色も望まれたが、ラピスラズリや塩基性炭酸銅のアズライトのような鉱物はこの用途には不向きである。

 

 

 中国ではタデ科イヌタデ属の植物である藍(蓼藍)が早くから用いられ、日本にも6世紀頃に伝えられた。特産地としては現在の徳島県が代表的で、特に江戸時代に阿波藍として広く知られていた。

 

 またインドでは、古くからマメ科コマツナギ属の植物から作られるインド藍が染料として用いられた。これがいわゆるインディゴで、1900年頃に登場する合成インディゴと区別するため天然インディゴとも呼ばれる。

 

 インドからエジプトやギリシア、ローマ、そして中国や日本へと輸出され、古代世界ですでに広範囲で用いられたが、いずれにしろ運搬コストがかかるため非常に高価であり、供給量も限られていた。

 

 日本の絵画にもこれら蓼藍やインド藍が用いられたが、18世紀なかばからはプルシャンブルー(ペルシャの青、の意)が輸入され始める。発色の鮮やかさを特徴とする錦絵の絵師たち、なかでも葛飾北斎らはベロ藍と呼ばれたこの顔料を愛用している。

 

 一方、ヨーロッパで輸入品ではない自前の青色染料として古くから知られていたのは、また別の植物である。

 

《ブリタンニー人はみな大青で身体を染め、青い色なので、戦闘では恐ろしいものに見える。髪をのばし、頭と上唇の他は全身を剃っている。》(ユリウス・カエサル『ガリア戦記』より、近山金次訳)

 

 カエサルが紀元前54年頃にガリア奥地まで攻め入り、ブルトン人と交戦した時の記録である。彼の戦記はただの戦争記録にとどまらず、各地で見知った風習や文化までが詳細に記されており、貴重な歴史資料となっている。

 

 引用文中の「大青」の原文は「Vitrum」であり、これがヨーロッパで自前の青色染料として用いられた「ホソバタイセイ(細葉大青)」を指す。アブラナ科タイセイ属の植物で、枝分かれした先端に黄色い小さな花を沢山咲かせるさまはミモザ(マメ科アカシア属のほう)とよく似ている。フランス語では「Pastel des teinturies」と表記する。「染料パステル」の意味である。

 

 パステルというと、画材としてのパステルを思い浮かべる方も多いと思う。四角く棒状に固めた画材のことで、顔料と水性のメディウム(媒材)を練り固めたものを指す。いわゆるクレヨンはこの仲間で、油脂や蝋などをメディウムとして用いているため油性パステルとも呼ばれる。

 

 カエサルの記述でわかる通り、古代ブルターニュでは入れ墨(刺青)にこの青色を用いていた。アルル近郊の新石器時代の洞窟からその痕跡が発見されており、フランスでは古くからホソバタイセイを原料とする染料パステルが生産されていたことを示している。

 

 その後、ヨーロッパ各地で栽培されるようになったが、特にフランス南部の温暖な気候がこの植物に適していたために生産の中心地となった。なかでも、その恩恵を最も受けたのがトゥールーズの街である。

 

 南フランスの主要都市トゥールーズは、スペインとの国境にあるピレネー山脈から流れてくるガロンヌ川沿いに位置する。フランスからスペインへと向かう道と、地中海から大西洋へ横断する道とが交差する要衝にあるため、古代から宿駅として発展した。

 

 パステルを一大産業にまで育てた大商家の名もいくつか残っている。そのひとつユダヤ系のベルニュイ家はもともとイベリア半島のアビラにいたが、同地のユダヤ人迫害を避けてトゥールーズに移り住んだ。

 

 家業をパステルと定めて以降は、広大な農園を確保して生産量を高め、ボルドーに支店を置いてそこからスペインやイギリスへと販路を拡げている。なかでも1475年頃に生まれたジャン・ド・ベルニュイはトゥールーズのキャピトル(参事、かつてのコンスルに由来し、ほぼ市長に相当)に就いて権勢をほこった。

 

 その富はヨーロッパ有数の規模となり、神聖ローマ皇帝軍との戦いでフランス王フランソワ一世が敗れて捕虜となった時、保釈のための身代金の大半を負担したのがジャンだと考えられている。

 

 同家にやや遅れて登場し、彼らと並ぶ大商人となったのが、1515年頃にトゥールーズで生まれたピエール・ダセザである。彼はスペインやイギリスに加えて、フランドル地方のアントウェルペンに支店をかまえ、そこからさらに各地へと顧客を広げていった。彼は毎年1000トンを上回る量のパステルを送り出した。

 

 しかし、まもなくトゥールーズに暗雲がたちこめる。1562年、ヨーロッパにインドからインディゴがやって来たのだ。これをもたらしたのは大航海時代である。マジェラン(マゼラン)が世界周航の旅に出たのはようやく1519年のことだったが、そこからの地理上の発見のスピードは速く、1543年にはポルトガルの船が種子島に到達して鉄砲が伝えられている。

 

 東南アジアの胡椒を中心にさまざまな品物がアフリカ大陸の南端をまわってもたらされたが、そのひとつがインディゴだった。

 

 1563年からは定期的にインディゴが運ばれるようになり、ロンドンをはじめ各地の市場では、より安価なインド産インディゴが青色染料の主力となっていく。

 

 こうして、莫大な富をトゥールーズにもたらしたパステルの需要は急速に落ち込んでいった。青色による栄華はわずか100年足らずで終わることになる。

 

 

 以上、池上英洋氏の新刊『フランス 26の街の物語』(光文社新書)をもとに再構成しました。厳選した26の街を訪ね歩き、フランスの重層性と多面性を紹介します。

 

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